2026.7.19 みことばの光


 時には西堀家庭集会の恵みの分かち合いを。先日は、堀肇師の『谷陰を越えて歩む』から預言者エゼキエルについて学びました。堀先生も書いています。「挨拶程度で発展しない関係」の人。聖書通読で読み通しても、印象の残らない人物。大預言者だけれど、人物像となると?堀先生も改めて読んでみて、「実存が触発されるような存在」と書いています。
 24章が重要です。第二次バビロン捕囚で現イラク南部、ケバル川のほとり、湿地帯で難民として暮らすようになったエゼキエルは、神に示されて、遠く離れたエルサレムの滅亡を、瞬時に知ることになります(第三次バビロン捕囚)。祭司としてエルサレム神殿で奉職するはずのエゼキエルにとっては、自分の未来の職場が失くなる決定的な悲劇でしたが、主はこの悲劇に対して「嘆くな、泣くな、涙を流すな。うめけ、しかし喪に服してはならない。」と命じたのです。エルサレム滅亡は、単なる悲しみで済む話ではない、そのことを預言者は身をもって示すことが命じられたのです。ところが、その夕刻突然エゼキエルの妻が死にます。彼は妻の死に対しても、主の命令を守りました。喪にも服さないエゼキエルに捕囚の仲間たちが尋ねると、エゼキエルはエルサレム滅亡が主の裁きの故、私たちの咎のゆえ、という問題の本質をはっきりと語ったのでした。
 エゼキエルの妻の突然の死は、エゼキエルにとって全く受け入れ難い出来事だったことでしょう。しかし彼は、最愛の妻の死を通して、エルサレムを失った神の悲しみが、単なる悲しみでないことを、身をもって知り、語る者とされたのです。