2025.3.16みことばの光
詩篇106篇は105篇と対になる歴史の振り返りの詩篇。105篇がいかなる時にも契約のゆえに恵み深かった神の救いのみわざのみを徹底的に歌い上げるのに対して、106篇は繰り返し悪を行うイスラエルの民の罪を徹底して描きます。しかしそれ以上に重要なのは、罪を繰り返す民を驚くべき忍耐深さをもって導かれる神の愛です。罪の繰り返しが徹底的に描かれればこそ、にも関わらず救い出される契約に忠実な神の愛が浮かび上がってくるのです。 そして詩人は今どのような状況にいるのか。106:47「主よ、私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。」という祈りは、アッシリア、バビロンに滅ぼされたイスラエル、ユダの民が、捕囚となり、世界に散らされたことを想像させます。国土を追われても神の啓示の聖書を堅持する信仰の民は、神の民が再び集められることを期待し、祈りの民となったのでした。(この種の祈りをシオニズムの起源と考える人もいますが、そうでない、とのユダヤ教保守主義者の見解があります。すなわち罪ゆえに離散の民となったのであるなら、神の恵みによらず、人為的に祖国に帰ることは赦されないとし、世界に離散している状況に甘んじているユダヤ教徒も数多くいるのです。軍事的にパレスチナの地を占領するなどもってのほか、私たちは、過去の罪を悔い改め、神が恵みによって祖国へ帰らせてくださることを待ち望むばかり、そう祈り続ける真に宗教的なユダヤ教徒がいるのです。)
クリスチャンはこの詩篇に神のしもべの姿を見ます。23節、御前の破れに立ったモーセ、30節、仲立ちをしたピネハスです。神は悪を憎み、裁きを行われる方。しかし執り成しの仲介を果たすしもべを通して憐れみを現されます。モーセは契約に立ち、ピネハスは裁きを実行して主の罰を終わらせました。裁きが実行される時、裁きは終わります。私たちの救い主イエス・キリストも神の裁きの執行により、すべての人の罪を背負って十字架で罰を受けられました。刑罰が果たされたので、私たちには罪の赦しが与えられたのです。この救い主は、荒野の40日の試みにおいて、人の欲望に屈服することなく、神の言葉によって生きる正しい道をはっきりと示した救い主でもありました。イスラエルが荒野の40年で果たせなかった、神のしもべの道を全うした、真の神のしもべだったのです。