2025.7.20みことばの光


 詩篇118篇は最後の「エジプトのハレル」。過越の祭りで歌われる詩篇なので、主イエスの受難とも深い関わりのある御言葉が散見できます。しかしその前に冒頭の四節をみましょう。

 1節「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」この賛美の言葉の最も古い起源は出エジプトの出来事に由来すると思われます。憐れみ深い主がイスラエルを救ってエジプトから脱出させてくださったこと。さらにその神が、未来に至るまで信じる者を助け導いてくださること、それが賛美の根拠です。2節「イスラエルよ」と言う呼びかけは、礼拝の会衆に選びの民としての自覚を与えました。3節「アロンの家よ」は大祭司の家系、神殿聖歌隊が特別に呼びかけられたことです。4節「主を恐れる者たち」。再び会衆全体が呼ばれるのですが、心の中の自覚的応答が促される招きでした。「そうだ私は、主を恐れ敬う者なのだ。その心で賛美するのだ」そういう内面の真実が求められる礼拝でした。

 5節からしばらく独唱が続きます。個人的な救いの経験の証のようです。しかしこの人は単なる個人ではありません。やがて王として迎えられる特別な人物でした。19節20節でエルサレムの門をくぐる王の姿が鮮明になります。19節では一人の王のゆえに義の門が開かれます。しかし20節では正しい者たちがその門から入ります。救いはイエス・キリストただ一人の十字架の犠牲の死によって成し遂げられました。そして信じる者たちは信じるだけでイエスと共に神の御国に入れていただけるのです。この詩篇も救いの成就を預言していました。

 22節「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。」主イエスが福音書において引用された御言葉です。主は選びの民イスラエルから拒絶され、見捨てられた者として十字架につけられましたが、それこそ救いの成就でした。イエス様は無くてはならぬ要石だったのです。25節26節にはラテン語の賛美ホサナ、ベネディクトゥスの語源となった言葉があります。いずれもイエス様のエルサレム入城の時に群衆たちが叫んだ賛美でした。エルサレムの群衆たちは、過越の祭りの時に、救いが成就することを直観的に期待したのかもしれません