2025.6.22みことばの光
先週の祈祷会もエジプトのハレル、詩篇115篇。幾つかの古代訳では114篇と115篇を一続きとする聖書もありますが、114篇はコンパクトなことが大切。また内容も両者異なるテーマなので、別物と見るべき。115篇の主題は頼りがいのない偶像の神と頼りがいのある真の神の不変の栄光です。
2節の人々の問いかけが、3節以下の反論のきっかけです。「彼らの神はいったいどこにいるのか?」世界諸国の宗教は、刻んだ像を崇める宗教でした。これに対し聖書の神はユニーク。礼拝の対象は形ある像ではなく、目に見えない神。この信仰は、そうでない人々から無神論ではないか、と言われるほど、他にない宗教でした。しかし偶像の神々は神なのか?
3節、まことの神は天におられるので、人の目には見えない。しかし、望むところをことごとく行う。これが私たちの信条です。さらに4節、彼らの偶像は銀や金、人から見れば尊い素材かもしれませんが、「人の手のわざにすぎない」。まことの神は造り主、私たちの存在こそ「神の手のわざ」によります。罪を犯して不完全なものとなっていますが、私たちは誰もが「神の手のわざ」による尊い存在。私たちは物事を語り、見、聞き、嗅ぎ、触り、歩き、声を挙げることができるのに、人のこさえた偶像は、行動することはありません。空しい、実に空しい。そしてそれを信じる者も同じ。偶像の神を信じることは空しいことです。
ですから「イスラエルよ、主に信頼せよ、主こそ助け、また盾」と詩人は神の民に呼びかけます。目に見えないまことの神を信じる信仰への招きです。常に聖書は万民に呼びかけています。似せの神々、似せの宗教にだまされないように!
聖書の神は人格をもっておられます。1節「恵みとまこと」をお持ちでした。12節「主は我らを御心に留め、祝福してくださる」。小さい者も大いなる者も主に信頼するなら祝福を受けます。子孫は増やされ、地は与えられています。死人は主をほめたたえない。主は私たちにいのちを与え、賛美の使命に生かします。そして主をたたえる私たちは永遠に生きるのです