2024.7.21みことばの光


 詩篇86篇は詩篇第三巻中唯一のダビデの詩篇であり、個人的な祈りです。地味な印象を受けますが、全ての言葉は適切な場所に置かれ、嘆願と賛美のあり方の一つの形を教えています。日本語の語尾を見ても、願いと確信が交互に出てきていることがわかります。「〜してください。」という願いと「です。ます。」調が交互に登場します。ダビデは神の答えを必要とする状況に置かれていました。しかし願いだけを繰り返しません。1-5節では、自分とは何者であるかを正しく認識する言葉によって願いを中断しつつ、神の答えを求めているのです。私たちも自分が何者かを正しく思い出しつつ祈ることが有益です。
 1b節「私は苦しみ、貧しいのです。」という告白は、意図せず苦しい状況、貧困状態になってしまったということではありません。そもそもの自分の存在の本質が、苦しみの中にある存在、貧しいもの、罪人で、神の助けを必要とするという謙遜な自己意識です。私は根源的に弱く、愚かで、罪深い者だから、神の救いが必要であり、罪人を助けるのは、神様の御性質にかなったことではないですか、という期待と信頼が、祈りの冒頭から存在しているのです。2b節の「私は神を恐れる者」という言葉は、何か恐ろしいことがあって怯えているのではありません。神を畏れ敬う畏敬の念という神の民としての生活信条を意味しています。従う者を導き守ると約束された神に対して、契約を結んだ神の民は、神を恐れ敬い、従う民となります。彼は神と取り交わした契約のゆえに、「私のたましいをお守りください。」と守りを確信して祈っているのです。2節3行目、4節、16節には「しもべ」という語があり、祈りは、聞き手である主との関係性の中で、意味ある祈りとなるのです。16節には「はしための子」という語があり、詩人の母親も主に仕えるしもめであったことがわかります。それほどこの詩篇は、主としもべの関係の大切さを覚えて祈っているということです。2節の4行目は、嘆願と告白の間の間投詞。詩人は冷静に祈っているようでいて、中途「あなたは私の神」と叫ばずにおれない逼迫した状況に置かれていることも伝わってきます。この詩篇の第一連は5節の賛美で締め括られます。状況は変わっていませんが、恵み豊かな主を賛美して終えることが嘆願にふさわしく、この詩篇は嘆願と信仰告白・賛美が幾度も繰り返される形をとっているのです。