2025.2.9 みことばの光
その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、 の全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。
レビ記1章3節4節
今週は聖書通読がレビ記に入りました。祈祷会ではみことばを読んだ後、『レビ記を読む前に』を参考にし、1章を読んで教えられたことを分かち合いました。
ティンデルシリーズの注解書を担当したハリソン先生は、「レビ記はクリスチャンに読まれることのほとんどない書物である。」と開口一番述べています。「ユダヤ儀礼の専門書、律法ではなく恵みの時代に生きる者には無関係と考えられている。しかしレビ記を詳しく研究するなら、神の御性質、特に聖(きよ)さについて、驚くべき洞察がもたらされる」と言います。「神が聖くあるように民も聖くあれ」というのは、旧約新約に共通の教えです。それは実際にはどういうことなのでしょう。
また別の注解者は、レビ記を新約神学の苗床と呼びました。犠牲による罪の贖い、神との和解、神と共に生きる生活が描かれているからです。形式的に古い儀礼を行うことではなく、一つ一つの礼拝の行為の意味を理解し、真心から行う時に、そこには新約時代のイエス・キリストの犠牲によって切り開かれた新しい時代の新しいいのち、自由にされて神と共に生きる生活につながっていく教えが、旧約聖書にすでにあったのだということです。
冒頭にかかげた御言葉は、ユダヤ人たちが、犠牲の動物の頭に手を置いて、自分の罪の身代わ
りに死んでもらうささげ物の規定です。今日の私たちは、信仰の手をもって、完全な犠牲であるイエスに手を置く幸いが与えられていると解説されていました。今は動物犠牲の必要は無いし、またいかなる善行も、必要ではないのです。イエス様が罪の無い命を十字架で献げられたからです。信じる者はイエス様によって罪の問題を解決していただき、神と共に生きる新しい生活を実際に経験することになるのです。まことの犠牲によって彼は「受け入れられる」のです