2025.9.7.みことばの光

 
今回はディボーションガイド“潤った園のように”を基にみことばの光の欄を記していきたいと思います。マルコの福音書6章48節には広いガリラヤ湖の上で12弟子たちが船を一生懸命漕ぐも、中々対岸に辿り着くことができない様子が描き出されています。注目すべきは、12弟子中の6人が元ガリラヤの漁師だったということです。言い換えれば、使徒の半分がガリラヤ湖、航海のプロフェッショナルだったというのです。しかし、そんな彼らであっても対岸に辿り着くのは難しかったようです。力の限り、経験の限り、努力して漕いでも前には進めない…そればかりか、疲れ果ててしまう弟子たち。そのような姿は私たちに近いものを感じさせるかもしれません。というのも、私たちも何とか神様の栄光を現わしたいと願い、一生懸命応答し、証をする者たちだからです。しかし、努力し頑張っているうちに段々と疲れて最後は倒れてしまう…そんな時があります。それに対し、ある人は次のような座右の銘を唱えているようです。
「働きすぎるのではなく、満ち溢れること」
確かに主の栄光を現わすために努力することは素晴らしいことです。
しかし、主の栄光を現わすことに対して私たちが出来る事はただ主の前に重荷を置き、主の言葉に憩い、満ち溢れることだというのです。
満ち溢れる人生には、人間的な力みはありません。力んでも対岸へたどり着けなかった12弟子も同様です。イエス様が水上を歩いてこちらに来られるまで、迎え入れるまで何もできなかった12弟子たちのように私たちも、主が私たちの内に来られ満たされるまで何もできない弱さがあると思います。
だからこそ、満たされていきたい。そして、力んで疲れているのならば、水上から語り掛けられる主の御声を思い出していただきたいと願うのです。 「わたしだ。恐れることはない。(マルコ6:50)」