2024.10.13みことばの光

  先週の火曜日の聖書通読箇所はイザヤ書25章でした。樋口信平先生は「イザヤ書の中で最も美しい賛美の歌の一つである」と紹介しています。

 1節 主よ、あなたは私の神。

    私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。

    あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、

    まことに、真実に成し遂げられました。

 歴史に介入し、御心を実現される神がほめたたえられています。それは2節、城壁のある都が廃墟となる歴史的事件に基づく賛美でした。この都については諸説ありますが一致した見解はありません。ある者は神の都エルサレムと言い、別の者は、北のサマリア、アラムのダマスコ、アッシリアのニネベ、はたまたバビロンとキリがありません。2節から分かるのは、外国人の宮殿が存在した町。しかしその町が破壊された時、人々は天地万物の創造主なるイスラエルの神を恐れることになったというのです。しかし「国破れて山河あり」ではありません。聖書の言葉の驚くべきことは、神の御業が、弱い者に現されるということでした。

 4節 あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみのときの砦、

    嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられました。

    横暴な者たちの息は、壁に吹きつける嵐のようです。

 イザヤが神から預言の言葉を与えられた時代、アッシリアが台頭し、パレスチナの地域では小国が連合してこれに立ち向かう国際政治が展開されていました。南ユダ王国もどちらにつくのか、近くの北王国とアラムの連合軍が、軍事同盟参加を呼びかけていました。

 しかし神の預言者イザヤのメッセージは「どちらに組みしてもならない。ただ神にのみより頼め」というメッセージでした。それだけ聞くと、頑迷な妄信的宗教のように聞こえます。ですが、当時の状況をもう少し詳しく理解すると神の言葉の賢さが見えてきます。やがてアッシリアに飲み込まれる北王国、アラムと組みすることは決して賢い策ではなかったからです。しかし現実協力し易い隣国でした。忍耐して、より未来を見通す道を、勇気と信仰をもって選ぶために、神に信頼して人間的な策を退ける者は、自分の力が弱くても、祝福を受け取る道を選び取ることができるのです