2025.3.23みことばの光


 詩篇107篇から詩篇の第5巻が始まります。全150篇の詩篇の最終楽章。登山に例えるなら頂上にいよいよ辿り着こうとする高揚感が特徴と野田先生は解説しています。その高揚感はどこから来るのか。107篇は第5巻に分類されているものの、105,106,107と歴史の振り返りの詩篇としては三つ一まとまりと理解す学者も多くいます。その振り返り方が異なって重要なのです。ひたすらに神のみわざを歌い上げた105篇、民の罪を見つめ続けた106篇、107篇は、災いの中で助けを叫び求めると救われた苦難と救いの歴史が四つの連で具体的にまた象徴的に描かれているのです。人はどのようにして救いにあずかるのか?様々なケースがあるのだと教えられます。あなたはどの例にあてはまるでしょうか?

 第一連は4-9節です。荒野でさまよい、道を見失った人。飢えと渇きで疲れ果てた人。彼が主に向かって叫ぶと主は彼を苦悩から救われた。道を見出し、住む町に辿り着き、たましいは安らぎで満たされます。

 第二連は10-16節。先の連が広い土地で我を失った人であるなら、第二連は、狭い、独房のようなところに閉じ込められ、動くこともできない、拘束されているような試練です。しかし主は叫びに答え、彼のかせを打ち砕き、かんぬきをへし折って彼を自由へと連れ出します。

 第三連は17-22節、罪の故に恐ろしい病に苦しんだ人です。今日、病を自己責任とすることは、解決にならないとも言われ、そのような御言葉もありますが、他方、明らかに罪が問題である場合もあるのです。そして、それなのに、主は主に向かって叫ぶ者を救われ、癒される。罪を解決する憐れみ深い神の救いがあります。神は「愛される資格のない者を愛してくださる憐れみ深い神」なのです。

 第四連は23-32節、罪の指摘はありません。船乗りたち。貿易商人。しかし彼らは荒れ狂う海の上で自分の小ささ、卑小さを思い知らされます。この世の大海に漕ぎ出でた人こそ、自分の小ささを知って神に出会うことがあるのでしょう。主の弟子はガリラヤの漁師でした。彼らは湖の上で嵐に翻弄され、波風を静めるイエスが、人の知恵と力を超えた神であることに気づいていったのでした。畏敬の念がやがて心からの賛美に変えられてゆくのです。