2025.7.6みことばの光
先週の祈祷会は『聖書に聴く』。列王記第一17章を学びました。イスラエルは分裂王国時代、北イスラエルのオムリ王朝二代目の悪王アハブが治めています。まことの神を崇めず、偶像礼拝を熱心に行うアハブ王に対して、主は日照りによる警告を与えました。17章冒頭で預言者エリヤが王に謁見し「この日照りはヤハウェによること」、「ヤハウェの言葉によらなければ雨は降らない」と宣言しました。悪政を行う権力者に対して物申すこと、これは信仰者の役目です。私たちは世の「見張り人」としての役割を果たしているでしょうか。
神の与えられた日照りは、預言者の生活にも影響を与えます。ただし神は神の人の生きのびる道を、神ご自身のことばによって示します。「ケリテ川のほとりに身を隠せ」。ヨルダン川の東側、ギレアデ山地の険しい峡谷は身を隠すのにふさわしい避難所でした。神はカラスによってエリヤを養います。幾羽かのカラスたちが食糧を運び、水は川から。しかしこの川が乾涸れます。神は次のステージに預言者を導きます。シドンのツァレファテ、悪女王イゼベルの出身地に近い町。そこに住むやもめによってエリヤは養われることになります。ヤハウェのことを知っていたやもめ。しかし彼女も食に窮しています。エリヤの求めに応える信仰が試されました。厳しい時にこそ本当に力あるお方に信頼することが必要です。やもめが預言者の言葉
に従った時、彼らは厳しい状況の中で、食糧を保ち続けることができました。「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」
しかし神はさらなる信仰へ彼らを導きます。息子の死と蘇生を通して、やもめ自身心をさぐられ、エリヤもまた神に叫ぶほどに祈ることとなります。
主イエスはルカ4:26で、エリヤの時代にツァレファテのやもめだけが奇跡を見たと語っています。誰もが奇跡を経験するわけではありません。しかし「主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り(17:22)」と記されています。祈りは主なる神との人格的な交わりで、この神は信頼できるお方、心の通じる対話をしてくださるお方なのです。