2025.1.19 みことばの光

『朝ごとに〜』(詩篇第101篇8節)

 詩篇101篇は「ダビデの朝礼」、一言で言えばそうなります。王であるダビデが、一人、自室で朝礼を行なっている。朝礼は学校や会社などで仕事が始まる前に、全員が集まって挨拶や連絡を行うことです。互いのコミュニーケーションを潤滑なものとし、仕事への意欲が明確になります。ダビデは神の前に、神に従う王として、一人、朝礼を行なっているようです。

 イスラエルは神政国家。神政国家だからといって何か迷信めいた不思議なことがあるわけではありません。国の最高権威者である王が、まず祈りをもって神の御前に出て行き、清廉潔白の信仰の態度を誓うところから1日が始まる、これがダビデの朝礼、神政政治なのです。

 1節「恵みとさばきを私は歌います。」恵みとさばきは王が務めを行う土台でした。恵みとはヘブル語でヘセド。契約の愛です。創造主なる神を神としたイスラエルは神の民となり神の庇護、祝福を約束されました。この約束に立って、ダビデは王としての務めを果たすのです。国内の経済、外交や国防、様々な領域における祝福の土台は、神との契約によって保証された『恵み』でありました。人間的な知恵や手段を尽くすことばかりでなく、正義を行い、神に喜ばれてこそ、それらは確かな祝福として注がれるものなのです。王でない私たちにとっても同じ事です。

 王はまた国内の司法と行政その両方を担い、実際に問題を裁くことを神に委ねられた権威でもありました。神に向かってさばきを歌うとは、究極的な裁き主が神であるということを認めた上で、御言葉に教えられ、正しく民を裁くものとなる姿勢を意味しています。

 2節「全き道」これは神の前に一つ心の意味。他方、対義は「二心」です。あちらでこう語りながら、こちらでは別のことを言う嘘。神や人との関係において、いい顔をしながら、影では別のことを考えている裏切り。ダビデは、神の御前で正直に一つ心で生きることを願いました。目の前に卑しいことを置かない、曲がったわざを憎む。曲がった心、考えが、おのずと遠ざかっていく程に、悪を知ろうとしない態度、心がけ、これが大切です。そして王は陰口を叩くものを滅ぼします。一致して事にあたる時に、不誠実な人の行動や言動が、全体を停滞させるからです