2025.12.14 みことばの光
祈祷会では都上りの歌を学んでいます。天の都を目指す巡礼歌。そして123篇の2節はP.ドッドリッジの再臨待望の賛美歌の歌詞にもなっています(“Ye servants of the Lord”「汝、主の僕らよ」)。主人の仕事の始め方を見逃さない忠実なしもべ。主の来られる時を待ち望む仕方というものは、「目を覚ましていなさい(マタイ25:13)」なのですが、神のみわざの始まりを見落とさないように、私たちの主なる神の指先をしっかりと見つめること、なのだと教えられました。世の終わりのしるしはマタイ24:3以下に記されていますが、それらが、主イエスの預言された神の仕事をなされる指先のみわざと言えるでしょう。私たちは私たちの主なる方の仕事をじっと見つめ、しもべとしてふさわしい行動を瞬時に取れるものでありたいものです。続く124篇の最初は、先唱者と会衆の応答形式です。「もしも主が私たちの味方でなかったなら」。「主は私たちの味方である」という信仰を前提に、悪い状況を想像する。そしてその悪い状況に敗北していないということは、主の御名が力強い助けであることの証拠だということです。こんな歌も、一つの祈りの方法です。先日私は丁寧なお手紙をもらいました。「先生が旅行から無事戻って来られて感謝しています。」「もし旅先でインフルエンザになっていたら、既病歴のある先生は大変なことになっていたでしょう。」悪いことを想定しつつ、牧師の旅の安全のために祈っていてくださった方々がいらっしゃることを改めて覚えさせられました。牧師は「祈れば大丈夫。」「どんな時も神様が最善にしてくださる。」と信じていますが、きめの細かい祈りは足りていなかったと思い知らされました。「もし主が私たちの味方でなかったら」どんなに悪いことが起きていたでしょうか。そしてその試練の中で、私たちは失望の闇に落ち込むばかりとなってしまうことでしょう。祈りの中で思い巡らすことは有益です。それは守られているということを実感する賛美につながるからです。「我らの助けは天地の造り主の御名にある」