2024.3.17みことばの光
詩篇73篇は信仰者の動揺について率直な告白がなされているユニークな詩篇、風変わりな詩篇です。どんな時に信仰者がつまずきを覚えるのでしょうか、信仰を失いそうになるのでしょうか。詩人アサフのつまずきのきっかけは、神を信じていないのに栄えている人を見たことでした。彼は驚くほど正直です。彼の見えるところで、神を信じていない人たちは、何一つ不自由のない、思いのままの生き方をしていました。「彼らはいつまでも安らかで 富を増している(12節)」のであった。
よそ見をしたとたん、アサフの心に疑いと迷いが生じました。まじめに礼拝に出席し、神に従って生きている自分が愚かに見えたのです。「ただ空く私は自分の心を清め 手を洗って 自分を汚れなしとした(13節)」と思い、確信を失ったのです。
こういうことは、現代のクリスチャンにもないわけではありません。日曜日の礼拝に向かう途中、わが子から「あの人たちは遊びに行けて楽しそうでいいなあ」と言われたらどうだろう。自分も世の人をうらやむ気持ちになるかもしれない。実際、信仰がなくても、富み栄える人はあるからである、と野田先生は述べています。
しかしアサフは立ち直ります。神の宮に行ったからである。(神と向き合う祈りの生活習慣を持っていることは大切です。これを持っていない人は、立ち直りのきっかけを持つことが非常に難しくなります。)17節に詩人の心の転換点がはっきりと記されています。「ついに私は 神の聖所に入って 彼らの最期を悟った。」18-20節に神の救いを持たない人の結末が記されています。また詩人自身の自分の心の反省も、彼が真実に気づいて立ち直るきっかけでした。21-22節に「自分の愚かさにきづいた詩人」のたましいの遍歴が描かれています。「私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき 私は愚かで考えもなく あなたの前で 獣のようでした」。アサフは心の突き刺されるような痛みを経験したのです。なぜ神を信じて正しく生きている私がこのような苦しみを経験しなければならないのですか。神を信じていない人が、あんな安らかな人生を気楽に送っている一方で!そんな心の叫びを、叫ばざるを得ない状況を彼は経験したのです。しかしそれは「獣のよう」であった。「ねたみ」「うらやみ」は私たちを愚かにし、理性を失わせるのです。しかし頭を冷やして考え、神と向き合うと、「私の右の手をしっかりとつかんで(23節)」おられる神が見えてくるのです。神は、信じる者を「後には栄光のうちに受け入れてくださ(24節)」るのです。信じる者にはこのことがはっきりと約束されているのです。信仰の幸いを見失わないようにしましょう。