2026.5.17 みことばの光
今週の祈祷会は詩篇137篇。森有正のエッセイのタイトル『バビロンの流れのほとりに』はこの詩篇からとられました。詩篇を読むと即座にわかるように、ユダ王国滅亡の後、バビロン捕囚となった詩人の憂き目を歌う悲しみの歌であり、山谷豊かなパレスチナとは異なる、広大な平野。滔々と流れる大河チグリス、ユーフラテス、そのほとりの柳の木に、竪琴を掛けた詩人の姿が、見事に浮かび上がるのですが、竪琴を木に掛けた、その心情を読み解く時に、戦争に負けるとはどういうことなのか、経験したものの深い悲しみ、怒りと叫びすら、伝わってくるのです。
「私たちを苦しめる者たちが、歌を求め、余興に『シオンの歌』を歌えと言った。これに対する応答が、「異国の地で歌えるだろうか」との拒否でした。歌えないのでありません。神の民の神礼拝のための喜ばしく誇らしい賛美を、異教徒の余興に歌うことはできないということ。破壊された聖なる都エルサレム、愛する故郷を忘れまじ、との思いは、5,6節に吐き出されています。平和であれば竪琴を弾き語る詩人にとって、「手が巧みさを忘れ、舌が歌えなくなればよい」という言葉に、悲しみと怒りの深さが表れています。
しかし最終節の地獄のような呪いの言葉は、読者を戸惑わせます。どのように理解すべきなのでしょう。キドナー師が述べる三つの段階の第一を紹介しましょう。第一に詩篇そのものを直感的に、かつ正確に受け止めること。吐き出されている思いは、激しい怒りであり、その方法は神に正しい裁きを求める祈りでした。7節の「思い出してください」という願いは、法廷で裁判官に事実認識を求める原告の訴状でした。神の裁きに委ねているのです。そして仕返しを求める言葉は、どんな仕打ちを受けたのか、被害を受けたのかという最終節を導いているのです。