新潟福音教会

2024.1.28みことばの光


 先週は詩篇69篇を学びました。詩篇の中でも1,2を争う深い悩みに置かれた詩人の祈りです。しかし悩みの中にいるからこそ29節、詩人は神を賛美します。34節、世界中の被造物にも賛美を呼びかけます。様々な問題を徹底的に見つめた時に、創造主なる真の神にしか救いは無いと悟った結果でした。それは貧しい者の幸いを自分の手で掴む祈りの作業でした。
 1,2節は詩人が大変な苦境にいることがわかる比喩的な表現です。具体的な背景はわかりませんが、「水が喉にまで入って来ました」とは呼吸もできないような危険な状態、「泥沼に沈み足がかりもありません」とは自分を支えるものが何も無く、流され沈んでいくばかり、何があったのだろうと想像させられます。3節「叫んで疲れ果て喉は渇き目も衰え果て」。心落ち着いて祈れる状態ではなかったのです。祈っても答えが与えられず、疲れ果て、衰え果て、祈る気力も失せそうである。
 しかし不思議にも、敵の存在が、祈りを奮い立たせるのです。神様、こんな悪どい人が、よってたかって私を攻撃し、私から奪い取っていくのです、不正を許されるのですか?ひどく悪いニュースを聞いた時に、失望するのではなく、神様はそういう状態を放置されないお方であるから、今こそ祈りを聞いてください、と力を得て祈るべきです。
 ところがその後に示されたのは、5節「私の愚かさ」でした。根本的な神の御心を悟り得ないゆえの愚かさが、私にもある。悪いのはあの悪を行っている悪人だけでない。しかし私は自分の罪を知ってあなたに信頼する者となったのだ。あなたに信頼する者が、卑しめられないように、私は願う。彼は神のみを頼りとする者になろうとしていました。8節、兄弟が自分を除け者にする。福音書では人間としてのイエス様を知っている人々が、イエス様の神の御子であることを信じることができず、イエス様に無思慮な言葉を投げつけたことが記されています。9節、神殿も商売人の巣になり果てていました。当時の社会としては当たり前の姿でしたが、神に祈りをささげる神殿の尊い使命を知っているイエス様は、正しいことは何かと厳しく問いかけられました。14,15節は繰り返しで冒頭の試練が変わらずに続いていることを示しています。しかし一しきり祈った詩人は同じ状況の中で違う霊的な状態に導かれていきます。祈りは神との交わりであり、決して独り言ではありません。聖霊が新しい思いを与えてくださるのです。16節、神のいつくしみ深さ、恵み深さ、あわれみの豊かさにこそ心を集中すべきです。また敵が真に悪者である場合には、22節から28節のような言葉を祈ることが可能になります。