2025.4.27みことばの光
詩篇110篇はメシア詩篇です。旧約聖書でありながら救い主イエス・キリストのことを預言しており、新約聖書でも多く引用されている重要な詩篇です。しかし分かりにくいため、記憶に残りにくい聖句となっています。このさいですから、誰が何を語っているのか、新約聖書に引用されている理由を明確に理解する者となりましょう。
この詩篇では「ダビデによる」という表題が重要です。なぜなら新約聖書で主イエスがこの詩篇をダビデの作として強調しているからです。1節、最初の「主」は太字の「主」「ヤハウェ」「父なる神」のことです。そして「私」は「ダビデ」、「私の主」は「もう一人の王」「真の王」「メシア」「キリスト」です。つまりダビデは、父なる神様が御子キリストに命じておられる姿を見ているのです。2行目のカギカッコは父なる神ご自身の言葉です。「御子よ、あなたは父の右の座に着いていなさい。父が御子の敵を御子の足台とするまで。」という意味です。イエス・キリストは十字架で罪の贖いを成し遂げ、復活して死に勝利され、天に昇り、父の右に着座されました。これはイエス様が救いのみわざを成し遂げ、王となられたということを意味します。2節は、父が御子の力の杖を、シオンから伸ばされる。すなわち、父と御子は王権において全く一致して、支配権を行使されるということです。3節にはこの詩篇でわずかに人間の姿が描かれます。キリストを信じる民は、キリストに喜んで仕える民です。聖なる威光をまとって、とは、神の持つ聖さの輝きの中にあって、神に仕えるということです。
朝露は、はかなく消えるもののたとえに用いられることもありますが、ここでは、消えるはずの朝露がいつまでも輝きとなって新鮮さを失わないことを表現しています。
4節で父なる神は御子キリストを永遠の祭司として任命されます。こうしてメシアは、真の王でありまことの祭司であることが示されます。イエス・キリストこそ真の王でありとこしえの祭司となられた方です。救いを成し遂げたキリストは、やがてくる終わりの日にこの世の王たちを打ち砕かき、国々を裁かれます。世界を見渡すと強大な国々が経済力、軍事力にものを言わせ、我が物顔で振る舞っているように見えますが、まことの王、まことの祭司は、最後に世界を正しく裁かれるイエス・キリストなのです