2024.6.9みことばの光


  先週の祈祷会は「聖書に聴く」ガラテヤ人への手紙1章を読み、教えられたことを分かち合いました。
 ガラテヤ人への手紙はキリスト教信仰の大切な教理『信仰義認』が明確にされた書物、2章16節に書いてある通りです。「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。」
 人は宗教を信じる理由の一つに心の平安を得るということを考えます。キリスト教は、確かに心の平安を与えることのできる宗教です。それも、決して揺るぐことのない心の平安を与えることができる、と言って良いでしょう。なぜならそれは自分の行いによらないからです。
 キリスト教は厳しい人間観を持っています。人はよいものとして神に造られたけれど、罪を犯して堕落し、神の祝福を失ってしまった。完全に堕落して、自分では自分を救うことができないとまで言い切ります。人は善行によって正しいと認められることはできないのです。
 旧約聖書はそのことを実証した歴史の記録です。神の人アブラハムがあらわれました。モーセの時代に神の民イスラエルが形成され、約束の地を相続し、王国を建設に至ります。しかし彼らは繁栄の絶頂も経験しましたが、神に背いて滅んでいきました。神様は神の民を選んでチャンスを与えましたが、ただの人間は神の正しい御心を完全に行う力が不足していました。このような旧約聖書を学ぶとき、今日の人間の営みも、社会の営みも、神の特別な恵みによって導かれなければ、過ちに陥り、滅びに進んでしまうものであることを、あらかじめ学ぶことができます。
 それで神様はついにご自分のひとり子を地上に送るという特別な救いの方法を実行されたのです。イエス・キリストは罪のない唯一の人間でした。神の御心に従い通し、そして最後は十字架で死なれたのです。しかしその時に人間の罪の根本問題は解決し、信じる者はキリストと共に新しく生まれ生きる道が開かれました。信仰によって生まれたものは、罪から解放されて新しい歩みをすることができます。この十字架の贖いを信じることによって信仰を初めて行くことが大切です。この後もガラテヤ人への手紙を通して、まことのキリスト教信仰の大切な部分を理解するものとなりましょう。