2025.11.23 みことばの光

 
大地に無言で峙(そばだ)つ山に対した詩人の感興。重い自然に直面した人間の軽さ、天地悠久の前にさらされた人生の儚さ、無情なまでの天地の沈黙に取り囲まれて覚える人のいのちのやりきれない哀しさ──このような粛殺の気に押し迫られて、詩人の心底突き上げてきた思いは、密度高く、熱気を秘めてことばとなり、文字となりました。おそらく全詩篇中、日本人好みの名編が、この121篇でしょう。
「山」といって、詩人が目の当たりにする山は荒涼とした山なのです。日本の美しく、魅力的で、おしゃべりな山とは違います。索漠とした景観なのです。名もない山なのです。見ばえなどないのです。あの地方独特の恐ろしい地肌をあらわにした、樹木という樹木など、影も形もない山なのです。見るからに、うそ寒く、心細くさせられて、「私の助け」は、と心中念ぜざるをえない──そんな山なのです。誰しもが、かの地を旅したなら、この詩人の思いをもよおすことでしょう。 それも、歌う人は巡礼者なのです。巡礼の旅は重ねられ、その途上、もはや家郷も遠く、行く手に立ちはだかる見も知らぬ山に、ふと恐れを覚える旅人。遠足や行楽客の軽い気持ちではなく、心は宗教的なのです。日帰りではないのです。草枕をいくつも重ねる旅路なのです。嬉々としてというよりは黙々として、なのです。見知らぬ旅路の寂しさに沈み、行路の困難、危険を案ずるのです。その巡礼者たちが、低く口ずさんだ歌と見ると、ひとしおの感慨にせまられます。
もとより、どこから助けが来るかは、巡礼者の承知するところ。だからこそ、その真の助け手を礼拝しようと、ここまで旅して来たのです。けれども、それを今一度あらためて自らに問い直す。ここに巡礼者の思いがあります。(小畑進著『詩篇講録』より)