新潟福音教会

2024.2.4みことばの光


 先週は「聖書に聴く」マタイ13章を学びました。私たちは山上の説教を学んできましたが、マタイの福音書は何よりも真っ先に主イエスの福音を宣言します。それが5章から7章。私たちは主イエスの教えの気高さに心を打たれます。しかし実際にはどのように聴くかということが問題になります。本日の礼拝の聖書箇所、山上の説教の結びもそうです。そして13章も有名な四つの種のたとえの他、私たちの姿勢を教える言葉になっています。そこでは教えを聞くだけでなく、伝える人となるためにも訓練を受け始めた弟子たちの姿がありました。私たちに期待されていることは、自分が理解するだけでなく、教えられた言葉を使うことのできる人となることなのです。13章52節 そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」主イエスの教えを真剣に学ぶ人は、大学を出なくても、論文を書かなくても、学者になれるのです。ただし、イエス様の言葉の聴き方には注意しなくてはなりません。
 13章は、ただ聞くだけに終わった群衆と、質問して奥義の説き明かしを聴いて悟る者になった弟子たちの違いがはっきりと描かれています。それはあからじめ定められたことでした。ただし定められたことだからといって群衆が悟らなかったことの責任を免れるわけではありません。イエス様は誰に対しても公平に語られました。それを聞くだけで終わってしまうか、聴いて悟る者となるかは、自分の姿勢にかかっているのです。
 19節「聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。」教会でいい話しを聞いた。聖書ですばらしい言葉に出会った。そんな感動があっても、それを否定する言葉も世の中には溢れています。与えられた良い言葉を打ち消してしまう良くない言葉もあるのです。私たちは私たちを生かす真実な言葉が自分の心の中にしっかりと植わり、根を張って芽を出し、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結ぶようにしなくてはなりません。20節、喜びをもって良い教えを聞いても、21節、自分の中に根がないと、長続きしない。聖書を読み続けることや、教会に集い続けることにも、障害は生じてくるのです。障害が生じた時は、根を伸ばすチャンスでもあります。地中深く根を伸ばすと、障害を乗り越える強さが身につきます。22節は世の思いの煩い、富と誘惑が障害となる場合です。この世に生きる限りこの世のことを考える必要はありますが、それでみことばの種の成長に心を配ることを忘れてしまってはなりません。良い地に蒔かれた種にはそもそも生命力があるので、三十倍以上の実りになるのです。