2024.4.7みことばの光
今年の元旦礼拝では「希望を語れるように」と題してペテロへの手紙第一3章15節からメッセージをしました。今の時代の中にあって、私たちが信じているキリスト教信仰の与える希望とはどのようなものなのでしょうか。
日本には「鰯の頭も信心から」という言葉があり、「何を信じるか」よりも「信じる心が大切」とする考えがあります。しかしキリスト教はこのような考えとは全く異なるものです。キリスト教は「人に語りかけられた神の啓示」を土台とする宗教だからです。新旧六十六巻からなる聖書の土台を成す創世記は、神に語りかけられた人、アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの物語を記しています。彼らは、神が語ったこと、語らなかったことを、はっきりと聞き分けています。その後のモーセの時代には、聖書の最初の五巻が書き記されたと言われています。その後も、預言者、神の人たちが神のことばを聞き、記し、そして主イエスの救いのみわざの成就の後、ヨハネの黙示録をもって神の特別啓示は完了しました。信仰者が耳を傾けるべき神のことばは、これ以上増えることはありません。救いのために必要なことは語り尽くされました。だからこそ私たちはこの聖書にしっかりと取り組んで、神様のくださった約束の希望は何か、はっきりと理解する必要があるのです。
聖書には、すべてのものが神によって造られたと記されています。それで私たちは世界のすべてのものの存在が無意味でないことを信じます。どの人間にも、今、存在し、寿命を全うするまで生きるべき理由と価値があるのです。神様が生かしておられるからです。
しかしまたこの世界は、人間の罪のゆえに堕落した世界でもある、と聖書は語っています。最初の人アダムが罪を犯し、人類は神様の祝福を失ってしまいました。今、世界を見渡すと、様々な問題が存在しますが、そもそもの問題は、人間が創造主なる神に背き、自分勝手な道を歩み始めたからなのです。
しかし神は、人間を瞬時に滅ぼさず、悔い改めの機会を与えられました。それで、私たちは、問題を持ちながらも、今、生かされているのです。自然の恵みも、全て損なわれることなく、不完全ではあるけれど、私たちのいのちを守り、支えてくれています。
私たちはどのようにして罪の問題を解決し、本来意図された神と共に生きる幸いを取り戻し、希望と喜びに生きることができるのでしょうか。これからそのことを学んでいきたいと思います