2025.4.20みことばの光
詩篇109篇はいわゆる”呪いの詩篇”で正しく理解する必要があります。一般に詩篇は祈りの模範と言われ、模範として用いることができますが、この詩篇に限っては、そのまま祈ってはまずい箇所があります。キドナー師は、「この詩篇が何を言っているのか、何がそれを引き起こしたのか、考察する必要がある」と述べています。また「模倣するためではなく、学ぶために記録された」とし、他方、「罪のない血の叫び(マタイ23:35,ルカ18:8:無実にもかかわらず命を奪われた義人の叫び)を言葉で表したもの」であり、「悔い改めない者にさばきを告げる神の代弁者となっている」と言います。
私たちは新約時代を生きるキリスト者です。「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません(ロマ12:14)」の言葉が与えられていますから、その通りにすべきです。しかし詩篇109篇は私たちに尋常ならぬ衝撃を与えて、その上で和解の使節として務めを、さらに誠意を込めて遵守するように導くものなのです。
6節以下具体的な”呪い”が始まりますが、それはダビデが受けた非道な仕打ちでもあったのだと考えることができます。そして悪には相応の悪が罰として報いられるのです。8節は使徒の働き1:20に引用され、主を裏切ったユダにふさわしい報いであったとされています。私たちは敵を呪うべきではありませんが、神は正しい審判者で、悪に報いられる正しいお方です。 9節以下は悪を行う者の妻子らに災いが及ぶことが願われています。聖書にはこれと真逆の教えも語られており、人は自分の罪の責めを負うのであって、子が親の罪を背負ったり、その逆もないとの教えもありますが、一方で罪の遺伝的性質も否定できないのです。アダムの罪が人類全てに及んでいることもそうです。しかしだからこそ主イエス・キリストの犠牲によって人は罪を解決する必要があり、新しく生かされる必要があるのです。
ダビデの敵は愛に代えてダビデを告発する(4節)人々でした。しかし31節「主は、貧しい人の右に立ち、死を宣告する者たちから彼を救われます。」ローマ8:34には「よみがえられたキリストが、私たちのためにとりなしていてくださる」という力強い約束の御言葉が述べられているのです。