2025.6.15みことばの光
先週の祈祷会は『詩篇の愉しみ』エジプトのハレル、過越の祭り、最後の晩餐の席で歌われただろう賛美が続きます。内容は、たった8節の中に出エジプトの歴史、神の偉大なみわざが織り込まれた賛美。1節から2節の流れで、神の民が、隣人との関係から、神との確かな関係に救い出されたことが重要です。出エジプト記1章はエジプトに寄留するようになったイスラエルの民の姿を描いています。寄留のいわれを知らないファラオは、国内で勢力を増すイスラエル人を恐れ、迫害し始めました。恐れから外国人差別が始まったのです。神の民は救われる前、人間関係、隣人関係において切実な悩みと問題を抱えていました。
しかし彼らは救い出され、神との関係に生きる民とされていくのです。2節、ユダは神の聖所となり、イスラエルは神の領地となった。神の聖所では、活ける神と交わり、御言葉をいただき、神の思いに応えて生きることになります。イスラエルの領地はカナンの地ではありません。彼らの存在そのものが神の領地なのです。救いは霊的な救いでした。今日私たちが救われて、聖霊の宮となることも同じ霊的な救いです。目に見えない霊のことがらです。しかし霊が神にあって新しくされるとあらゆる変化が起きてくるのです。
出エジプトは、自然界が神の力に圧倒された時でもありました。海は見て逃げ去り、ヨルダン川は引き返した。巨大地震が襲うと、まさにこのような光景が出現することを私たちは繰り返し見聞きしています。山や丘も跳ねる。民が十戒をいただいた時、主がシナイ山に降りて来られ、山は鳴動し、人々に恐怖を与えました。主の御前で私たちはおののきつつ礼拝を献げる者なのです。このおののきには、喜びも含まれていると教えられました。そして結びは、全く変わることの期待されなかった硬い岩から、潤う沢が与えられるということ。ガンコな私が、神の力によって、人を潤す泉となることができるのです。変わらない神のみわざはです。