2026.2.22 みことばの光


先週の祈祷会は詩篇130,131篇。131篇は7つの悔い改めの詩篇の第六番目、悔い改めの季節の始まりにふさわしい詩篇でした。
130篇は最終的に民への呼びかけとなっていますが、祈りの開始は「私」。1人称単数で個人の問題です。『深い淵』は文字通りには深い所の意味ですが、旧約聖書の世界観では『陰府(よみ)』を意味し、それは天の神から最も離れたところ、神への祈りも届かない場所のことですが、しかしそこから神を呼び求めるところに、この詩篇の意味があります。詩人の直面する問題は、外的な問題、敵の存在ではありませんでした。内的な問題、霊的な「罪」の問題でした。 詩人は3節で罪、不義の問題が如何に大きいかを語りつつ、仮定法によって、主の赦しの可能性の存在することをあらかじめ述べています。罪の深さは深き淵、しかし、向き合う神は赦してくださる神、この揺るがない土台の中で、詩人は、赦してくださる神を待つ信仰に立つ、これこそが私たちの祈りの模範なのです。
神が赦してくださらなければ御前には立てない、しかし赦してくださるので御前に立つことができる。ここに、主の赦しによる救いがあります。そして私たちは信仰によってこの救いをこの手に受け取るのです。そして、赦しによる救いは、神へのまことの畏敬を生み出します。4節の「恐れ」という言葉の意味は、如何なる奴隷的恐怖とも異なる、畏敬崇敬の思い、愛や信頼すら含まれています。神が私たちの罪を解決するために、御子を罰したのですから、私たちは、私たちには愛のみ示された天の父を、畏れ敬わないわけにはいきません。このようにして、王国を失ったイスラエルの民は、まことの王による贖いの救いを待ち望む民となったのです。