2025.7.13みことばの光


 先週は新潟聖書学院夏季講座にて大変有意義な学びをいただきました。山口陽一師のレジュメから結論部分を掲載いたします。

 7、悔い改めと「殉教の復位」

 昨晩はダニエル書9章の祈りから、神の民の歴史観と一体性、悔い改めの実としての生き方を学び、日本の教会の戦後80年における戦時下の罪責の自覚を考えた。日本的キリスト教の論者たちの中には、戦後も同じ立場を継続した者もおり、悔い改めは黒崎幸吉、谷口茂寿以外確かめられなかった。  渡辺信夫は自分の戦争責任を次のように語る。「国のために死ぬ覚悟をどういう関係づけにおいて持ったかという点に致命的な欠陥があります。ここに私の戦争責任の核心部分があることに戦後気づきました。」殉教が殉国にすり替わったことに気づかなかったことを渡辺は自身の戦争責任として問い続けた。渡辺はカルヴァンに学び、キリシタンの殉教から始めて、朱基徹の殉教や趙寿玉の生き方を学ぶ中で、神への従順ゆえの殉教、そして「殉教の復位」を語った。それが権力への「抵抗」ともなるという理解に行き着く。それは市民的抵抗ではなく、政治における奉仕としての抵抗権の発揮でもない。信仰による神への従順ゆえの殉教が、結果的に権力への最も強い「抵抗」ともなったとの理解に行き着く。

 「殉教の復位」は、殉教賛美や殉教の奨めではない。それは500年に渡る日本キリスト教史を振り返り、負の遺産とされた殉教を「報国」に変容させた近代日本のキリスト教の克服のあり方である。「日本的キリスト教」の本質を神のことばへの背きと見定め、悔い改めの実として、殉教の精神をもって、殉教など起こらない社会をつくってゆくことである。

 「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。私のために人々があなた方を罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる時、あなた方は幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなた方の報いは大きいのですから。」