2025.1.26 みことばの光

『主よ、私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。』

詩102篇1節

 詩102篇は表題にあるように「苦しむ者の祈り」です。私たちは詩人のような苦しみに出会ったときに、彼の言葉を借りて祈ることができますし、そうでない時には、詩人のような苦しみに出会っている人の苦しみはどんな苦しみなのか、この詩篇を通して理解を深めることができます。

 この詩篇は悔い改めの詩篇に分類されることもありますが、それは誤解です。罪の問題は語られていません。むしろ原因不明の困難の中で詩人は困り果て、燃え尽きようとしています。ヨブの苦しみに似ています。夜眠ることができず、はぐれ鳥のようになっている。不眠と孤独。夜しっかり眠れることは一番の健康法です。それが損なわれている状態。神様に訴えるべきです。悩み事を分かち合える友人がいるなら重荷は軽くなり、問題解決のヒントも与えられますが、一人悩んでいる状態は危険です。助けを叫ぶ力すら失われると本当に危険です。

 また詩人は他人の悪口に悩まされていました。そしり、嘲り、毒づく言葉に涙していました。先週、再びSNSの誹謗中傷が原因で命を絶ったと思われる事件が発生しました。匿名の情報を自由に発信できる便利な時代。しかし人間には罪があり、便利で楽しい道具が、悪用によって人を殺すことになります。聖書は今も昔も、人の言葉が人を深く傷つけることを教えているのでしょう。しかし詩人は信仰に立って苦境を跳ね返します。

 12節「しかし主よ、あなたはとこしえに御座に着いておられます。」憐れみ深い神、正義の神が全宇宙を、またこの世界を支配しておられるということを知っている信仰者はなんと幸いでしょう。味方なく、敵に罵られるばかりの日常をも、知っておられる神がいると信じられる。13節「あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。」彼は今は孤独でした。でも神の民に属しているという自覚が、シオンを憐れむ神は私を助けられるという信頼につながっています。「今やいつくしみの時〜、定めの時が来ました。」我慢の限界、極限状況に追い込まれたからこそ、ここで救っていただかなければ、という切迫した祈りが生まれます。窮地に立たされた信仰者は、絶えずこのように祈ってきたのです。