2024.10.27みことばの光
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」ペテロの手紙第一2章9節
先週の夕拝では篠原基章先生がこの御言葉から私たちの使命を説き明かしてくださいました。アブラハムが世界の祝福のために召されて以来、信仰者は世界を祝福する祭司としての務めを帯びた選びの民とされています。キリスト教の宣教とは世界を祝福する務めでもあるのです。この教えはプロテスタント教会が宗教改革以来堅持している「万人祭司」の教理にも通じることです。しかし教会では長らく、礼拝における祝祷は、正教師の務め、有資格者の務めでした。これが近年、補教師も可となったのですが、そもそも祝福の祈りは信徒同士も互いに祈りあうべきものとの理解もあります。"God bless you"という賛美歌もよく歌われるようになりました。信仰者は誰もが小祭司としての務めを帯びているということを真摯に受け止めるなら、むしろ祝福の祈りは、信徒、誰もが、祈るべき祈りとなるでしょう。しかし「誰もが」という時に、それは召された祭司としての神から与えられた特別な職務であるということを忘れるなら、「誰もが」という意味が単にいい加減なものに堕してしまう危険性があります。神が恵みによって、キリストの贖いによって、私たちを聖職に値する聖いものとしてくださったという理解に立たなければ、祝福の祈りの尊さが失われてしまうのです。贖いの恵みを真摯に受け取る時、私たちは他者を祝福する神からいただいた祈りの言葉を心から祈れるのです。
本日の礼拝では祝祷の前半部分を賛美チームが担います。牧師だけが祭司なのではない、その理解に立つ試みです。賛美チームが祈りつつ準備を、心からみことばを歌うことができるように。そして祝祷の祈りを受けた私たちも、遣わされた場所で、隣人に、祝福(祝福の原意は"良いことを言う"です。)の言葉をもって向き合っていく祭司としての務めを果たすものとならせていただきましょう。神は全ての人を愛して、贖い主イエス・キリストを与えてくださいました。神は人との和解を心から願っておられ、私たちをそれぞれの場所に遣わしておられるのです。