新潟福音教会

2024.2.11みことばの光


 先週は詩篇第70篇を学びました。この詩篇は緊急の助けを求める祈りのお手本です。ほぼ同じ祈りが詩篇40篇の終わりの5つの節にも見られますが、70篇には、40篇1-12節の過去の救いの感謝はありません。より緊急の状況の中で、最小限の言葉で助けを叫ばなければならなかった状況が想像できます。私たちは1月1日に大きな震災に見舞われ、即座に判断し行動しなければならない時を経験しました。また厳寒期に起こった震災の一刻も早い救援を祈らされましたが、まさにそのような時に私たちは「主よ、急いで私を助けに来てください。(1節)」あるいは、「私たちを助けに来てください」「彼らを助けに来てください」と手短に祈るべきなのです。神をせかせることは許されるのでしょうか。神は主権者です。助けが即座に与えられるかどうかは、神が決めておられることです。しかし私たちは神を信頼して待つためにも、必要を感じるならば「いますぐ、急いで、助けに来てください」と祈るべきなのです。ウクライナにも、ガザにも、圧倒的な武力で攻めてくる敵に対して、無力に思える多くの市民が、恐れ戸惑っています。いのちの危険にさらされている人々のために、私たちは、とりなし祈るべきです。「神よ、急いでください。主よ、遅れないでください。(5節)」
 詩人ダビデは実際にいのちをつけ狙われる試練を経験しました。サウル王が彼の才能と人気を妬み、彼を殺害するために追い回したからです。ところがダビデは、逃亡生活の中で、二度もサウルを殺害するチャンスを与えられるのです。その時ダビデは、神に油注がれた王に復讐することなく語りかけ、王はダビデの言葉を聞くと、自分の過ちに気づいて、引き返すことになったのでした。サムエル記第一の24章、26章に記されていることです。その背後にはこの詩篇の祈りがあったと考えられます。ダビデは「私のいのちを求める者たちが、恥を見、辱められるように。?立ち去りますように。」と祈りました。いのちを奪おうとする者に対しては、いのちを奪ってくださいと祈っても祈りすぎではありません。しかしダビデの願ったことは、敵が恥入り、退却することでした。祈りつつサウルに語りかけたところ、嫉妬に狂った王は正気に戻り、自分の愚行を恥じ、また、悔いることになったのです。祈りによる勝利でした。
 危急の時に、神様がどのように祈りに応えてくださるか、それはわからないことです。しかしダビデの祈りは、適切であり、神の応えを見ました。私たちも緊急の時には「神様、急いでください」と信頼しつつ神の助けを待ち望む者となりましょう。自分のために。また助けを必要とする人々のことを覚えて。