2024.10.20みことばの光
詩篇93篇は、王としての神に対する一群の詩篇の開始で、99篇あるいは100篇まで続きます。野田先生はこの詩篇を神の「みいつをたたえる歌」としています。「みいつ」とは、王など、圧倒的に権威ある存在が持つ輝きであり、力であり、それは「威光」と言い換えられるものです。詩人は「主こそ王です。威光をまとっておられます。主はまとっておられます。力を帯とされます」と歌います。聖書の中の、より古い時代の詩歌に見られる繰り返しの素朴な表現が、神の圧倒的な権威を印象付けています。
ある聖書学者はバビロニアのマルドゥク神に見られるように、神が王権を帯びるようになった経緯を伝える古代の文書との類似を指摘しますが、比較してむしろ明らかになるのは、聖書の神の異なる点です。聖書の神については「神が王権を帯びるようになった」という理解が存在しないからです。むしろ神こそが「いにしえ」から存在し、その御座に「とこしえ」からおられ、すべてを存在せしめたお方なのです。王になられたのではなく、王であられたお方なのです。1節3行目にあるように、世界の方こそ、つくられた被造物であり、王なる神の支配の下にあって初めて、堅く揺るがないものとされているのです。
野田先生は、今の世界に戦争や飢餓があり、苦しむ人が絶えないことを見つめています。しかし目に見えない神が「世界を堅く据えられて揺るがない」と信じるのが信仰であると。それでは、世界を堅く据えておられる神のみいつを私たちはどのようにして見ることができるのでしょうか。
一つは被造物によります。3節に、これもまた素朴な繰り返しによって、自然の力への驚嘆のことばが記されています。パレスチナ地方では、季節になると突然荒野に川が出現するそうです。詩人はそこに神の力を見たのかもしれません。重要なことは、自然に驚嘆しつつ、その背後におられる神の存在を思い巡らすことです。4節は、大水のとどろきにまさる、力強い海の波にまさる「主の力」に目を注ぎます。その主が「いと高き所」におられる。目に見えるものを通して目に見えない天上の神を信じる信仰です。ヨシュア記3章にはイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に進んで行った姿が記録されていますが、季節は「刈り入れ」の頃。水は、どの川岸にも溢れて、水かさが最大の時でした。しかし祭司が足を水に浸けると、激しい川の流れがせき止められ、民はヨルダン川渡河に成功したのでした。