2024.4.21みことばの光


  先日、信仰者は神に向かって考える、ということに気づかされました。信仰のない人も、物事を思い巡らしますが、それを神に祈ることはありません。信仰者は、あらゆる思い、煩い、考え事、計画を、神にお話しし、神の助言と実際の助けを求めます。考えることと祈ることは似ているのですが、結果は大いに違ってくるのです。
 詩篇には信仰の詩人の考えが述べられていますが、ただの考えに終わっていないのです。その考えを神の前に持っていく。これが祈りで、祈りは神の取り扱いを受けるのです。ですから何かあったら祈るではなく、日常的に、朝夕に、祈りの時間を持つことは有益なのです。過ぎた一日に、感謝すべきことはあったではないですか。また始まる一日に、神の助けがあれば、自分でうまくやる以上の祝福が、必ず与えられるのです。
 詩篇77篇の1節「私は神に声をあげて叫ぶ。私が神に声をあげると神は聞いてくださる。」信仰者にとって当たり前のこと。自分の考えを、神の前で思い巡らす、すると、物事は変わってくる、という祈りに対する基本的な確信です。(ただしここでは静かな瞑想ではなく、叫びでした。)そのように、古代イスラエルの人々にとって、神に祈らずに生活するということはありえないことでした。(祈らないイスラエル人はイスラエル人ではありません。そして祈らなくなると、人は信仰が何であったか、わからなくなってしまうのです。祈りの中で神と語らうと、信仰には実体があることが明らかになります。)ただし、祈りが喜ばしい時であるか、そうでないか、それは色々です。77篇の前半は、祈りながらも重苦しい状況を脱することができない詩人の姿です。2節「慰めを拒んだ。」詩人自身が自分の状況にふさわしくない慰めを拒否していました。聖書の中にも愛する息子を失ったヤコブが、数日ヨセフの失われたことを悲しんで「慰めを拒んだ」と記されています。「神様、なぜ私の愛するあの人を、私から奪ったのですか。」誰かを大切に思うからこそ、愛ゆえに、私たちは慰めを拒むことがあります。5節の遠い昔の年月とは、生活守られて、神様の祝福だけに取り囲まれていた時代の記憶です。
 そのことを思い出せば思い出すほど、現在の状況は、神に拒まれているように思える。神の恵みは尽きてしまったのか。約束のことばが御破算になったのか、と次々に疑いが湧いてきます。詩篇は疑いすら神に向かって語るべきと教えています。なぜならそれを神にぶつける時に、神の約束の言葉は永遠に変わらない(イザヤ40:8)という御言葉も思い出されるからです。7、8、9節の疑問は、すべて聖書の中に答え(反論)を見出すことのできる問でありました