2024.3.31みことばの光
詩篇が私たちに教えてくれる大切なことの一つは揺るがない世界観です。私たちはどのような世界観を持っているでしょうか。人間はどこから来てどこへ行くのか。この世界に正しい神はおられるのかいないのか。
詩篇75篇の祈りが提示しているのは7節、まことのさばき主なる神がおられるという世界観です。この神がすべてを支配しておられて、その御手のうちに、ある時代にはある人が栄えるように定められ、別の時代には別の人がこの世の権力者として君臨するのですが、人の繁栄するのも、滅亡するのも、神の「定めの時」があり、時が来れば「神は公正にさばく」と、詩人は信じて告白します(2節)。私たちは日常生活の中で目と耳から入る情報を自分で判断し、良い時代だ、悪い時代だと考えるものですが、詩篇の詩人の世界観は、悪い時代が起こり得る、しかし神は最後に正しい審判を下されるということを信じるものでした。それゆえこの詩篇の音調は、初めから感謝、結びは賛美、明朗な調子が保たれているのです。
3節「地とそこに住むすべての者が揺らぐとき」〜。幾つかの詩篇ははっきりと自然災害が私たちの生活の中で生じることを予告しています。そんな時、どうだと言うのでしょう。「わたしが、地の柱を堅く立てる。」神が地震にも振るわれない確かなものを残されるというのです。真実ではないでしょうか。大きな地震が驚くような被害をもたらす一方で、全ては失われず、生き残って新しい生活を育む者もいるのです。それは神の決めておられることです。 ただし生き残ったからといって慢心は禁物です。4節「わたしは誇る者には『誇るな』と言い、悪者どもには『角を上げるな。おまえたちの角を高く上げるな。横柄な態度で語るな』と言う。」聖書の神様の一貫してお嫌いになられることは「たかぶり」「高慢」です。守られて、栄えることがゆるされたとしても、それは自分を誇る理由にはならないのです。私たちは神の御前に自分の限界を知り、へりくだるべきです。
ところが8節、謙遜を忘れている成功者がいます。彼は美酒を飲み干すつもりで、神の怒りの杯を飲み干すのです。「混ぜ合わされたぶどう酒」とは、悪者の悪しき行いにふさわしいさばきの成分がぶどう酒に混ぜ合わされているということです。ところが悪者は高慢なので、酒をどこまでも楽しみ「かすまで飲み干す」。神のさばきが行われるまで、このような光景が続くことに驚く必要はありません。しかし真の支配者なる神に望みを置くものは9節、神のみわざを告げ、10節、主によって高く上げられることになります。