2024.11.17みことばの光

 詩篇95篇は「さあ、主に向かって、喜び歌おう、喜び叫ぼう」と力強い賛美に私たちを招きます。「感謝をもって、賛美をもって、喜びつつ」という礼拝の喜びに満ちた側面です。過ぎた1週間の感謝、嬉しかったこと、忘れずに神をたたえる時、私たちは栄光を神にお返しし、神に造られた存在としての役割を果たす者になります。そして満ち足りるのです。被造物としての目的にかなった役割を果たすからです。真の神礼拝は、主を満足させ、私たちも満ち足りるのです。

 前半は神の御前で飛び上がらんばかりの賛美。しかし礼拝には敬虔な側面も必要です。6節「来たれ、ひれ伏し、膝をかがめよう。ひざまずこう。」「呼ばれ」て「来る」、これは主が「主」であり、私たちが「しもべ」だからです。先日はとある教職の「五体投地の祈りを献げた」との証を読みました。全身を地面に投げ出しひれ伏す祈りは、神に対する最も丁寧な礼拝のです。切なる祈りがあればこそ、私たちは時に、そこまでして祈る必要に迫られます。礼拝堂のベンチの後方下部に膝つき台のついている教会もあります。文字通り跪いて礼拝し、祈りを献げるためです。

 しかし礼拝において最も重要なことは7節以降に記されます。9節で話法が変化していることがはっきりと読み取れるからです。7節の2行目までの「私たち」とは礼拝者のこと。しかしその後は直接話法で神ご自身の言葉です。9節の「わたし」は神であり、神ご自身の言葉です。礼拝で最も重要なことは「御声を聞く時、心を頑なにしてはならない。」「主を試み、主を試してはならない」。出エジプトの後の荒野の地名が引用され、結びに続きます。故事は出エジプト記17:7,民数記20:13に記されています。御心を損ねた第一世代は、偉大なモーセすら約束の地に入ることは赦されませんでした。ただしそれは罪の赦しと天の御国こそが真の約束の地であることの証拠ともなったのです。イエス・キリストを信じる者には、真の安息が約束されることとなり、私たちはその救いをいただきました。11節の言葉は厳粛ですが、私たちは、安息を約束された者として、神を賛美し、神にひれ伏し、神に従う者なのです。