2024.9.8みことばの光
先週の祈祷会はエペソ人への手紙2章を読んで、教えられたことを分かち合いました。聖書通読誌『みことばの光』9月号には「エペソ人への手紙を読む前に」と題して緒論がありましたので、これも参照しました。
一、エペソ人への手紙は獄中書簡と呼ばれ、著者は使徒パウロ、執筆年代は紀元60年頃、執筆場所はローマの獄中と言われています。同じ獄中書簡には他にピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンの手紙があります。
二、内容 この手紙の最も重要な聖句は1章23節「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方の満ちておられるところです。」と言えます。この手紙の中心テーマは「教会」です。
1章には信者に与えられた神からの祝福の全体像が述べられています。その後に、祈りとともに、キリストと教会に焦点が絞られていきます。
2章は前半と後半に分けられ、前半は、教会を構成する信徒が、「どのような状態から」「どのように救われたか」について述べられています。1章1〜2節「あなたがたは〜罪の中に死んでいた者であり、〜罪の中にあって〜この世の流れに従って歩んでいました。〜自分の欲のままに生き、〜生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」この状態は12節にも記されています。「この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」
信じて救いを受ける前の私たちの状態は、霊的には「死んでいた」ということです。最初の
人アダムとエバが罪を犯して以来、原罪は全ての人類に及び、私たちは神から切り離された、
肉体においてはやがて死ななければならない罪人であり、霊的にはすでに死んでいたというこ
とです。神のご計画の中で光栄な務めを持つ人間としての資格を失ったので、自分の欲するま
まに生きたとしてもやがては虚しく死を待つ者に過ぎなくなってしまっていたのです。
しかし4節に大転換点があります。救いの無いこの世に、神が介入されたのです。「しかし〜神は」という言葉の逆接の接続詞「しかし」は非常に重要です。全能者なる神が、罪に堕落した希望のない世界の歴史に介入して働かれたので、私たちは愛を受け、新しく生きる道が開かれ、希望を持つ者とされたのです。その神は「あわれみ豊かな神」でした。「その大きな愛のゆえに」という言葉も神の愛を強調しています。神が私たちを愛しておられるので、私たちは救いを信じて受け取り、希望をもって新しく生きることができるのです。