2025.12.21 みことばの光
詩篇125篇は再び山々に目を向けます。121篇では山を見上げ、まだ旅先遠くにある聖都を思い、旅路を守られる主への信仰を歌ったことですが、125篇はすでにエルサレムに居ながら、神殿の建てられたシオンの山の堅固さ、それが信仰者の揺るぎなさを表していると歌います。主に信頼する者は、山が揺るがないように、波風に揺さぶられることなく「とこしえにながらえる」のです。
また詩人はエルサレムを囲む山々にも目を向けて、神の民を取り囲み、完全に守ってくださる主ご自身の守りを見ています。私たちの神、主キリストは、愛の守りを以て私たちを取り囲まれるお方です。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(第二コリント5:14新改訳聖書第三版)。『キリストの愛、我に迫れり(教会福音讃美歌468)』の作詞は山口昇先生ですが、先生は神学生時代、北海道の倶知安で伝道中、犬に襲われて、あつらえたスーツをビリビリに引き裂かれたそうです。その夜、床に就いた時、天井から金色の十字架が迫ってきたのだそうです。その体験から讃美歌が生まれたとのことでした。キリストの愛は私たちを捕らえて離さない熱心な愛なのです。
しかし危険がないわけではありませんでした。3節「悪の杖」が「正しい人の割り当て地の上にとどまる」危険性がありました。何らかの「悪者」の支配でしょうか。「正しい人が不正なことに手を伸ばさないように」。困難な時代には、正しい人が正しく振る舞っても報いられない、手段を選ばなくなってしまう危険性があります。終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して餓死した裁判官がわが国にはおりました。私たちは困難な時に高潔な道を保てるのでしょうか。確かなことは「祈りが必要」だということです。「主よ、善良な人々や心の直ぐな人々にいつくしみを施してください(4節)。」私たちの生活が守られている今も、世界中には信仰のゆえに、正義のゆえに迫害されている人々がいます。私たちは世界中に真の平和があるように、と祈りましょう。主はみこころにかなう人に真の平和を与えてくださるのです。