2025.5.25みことばの光
詩篇113篇から118篇は『エジプトのハレル』と言われます。ユダヤ教、過越の祭の食事の前後に歌われる詩篇で、出エジプトの歴史の回顧と関係しています。113篇においても虐げられた者が顧みられ、起こされ、引き上げられるという流れ(7節)は、エジプトで奴隷であった神の民の救出と関連があると言えるでしょう。この詩篇の主眼は、卓越した主(5節)をほめたたえることにありますが、前半1~4節までは、高みにおられる主を賛美する礼拝への招きです。
1節、主の「しもべ」に賛美が命じられます。「しもべ」すなわち主に従うことを理解し、身を献げ従おうとしている者。ローマ12:1の、救われた者がその身を献げることこそ真の礼拝と教えられていることを思い起こさせる言葉です。歌を歌えば賛美ではありません。ほめたたえる主に従う行動が、賛美に続いてこそ、真の礼拝、真の賛美です。
「御名」をほめたたえよ、の「御名」という言葉は、頻繁に登場するので、意味を考えなくなってしまいすが、聖書の神は、みことばをもってご自分の本質を明らかにされたお方。またお名前を明らかにされた神(出エジプト記3:14)、その事実ゆえに、「御名をほめたたえよ」という言葉は、賛美が、私たちのよく知っている方をほめたたえることなのだ、ということも述べているのです。神がどのようなお方か、わかってほめたたえる賛美は、実質、神に喜ばれるすばらしい賛美となります。さらに2節3節は、時間において永遠の広がり、空間における、東の果てから西の果てまでの広がりを教えます。確かに永遠の神は、すべての国々の上に高くおられ、たたえられるべき唯一の神です。ところが5節の問いをターニングポイントとして、高みにおられる神が、身を低くし、貧しい人を引き上げてくださる憐れみ深い神だというのです。そのみわざが、いっそう深い賛美に私たちを導きます。いと高き神が、貧しい私たちを憐れみ、喜びに満ちた、祝福されたものとしてくださる。まことに神はほむべきお方なのです。ハレルヤ!