2024.12.22 みことばの光
詩篇99篇もこの季節に学ぶにふさわしい詩篇でした。父なる神様が御子の誕生によって成し遂げられたみわざに現される神の御性質が讃えられているからです。
1節から5節が教えるのは聖なる方、恐るべき王なる神です。ケルビムとは詩篇とエゼキエル書に登場する得体のしれない御使い。その姿は地上の生物全てを意味するような力強い存在で、しかし神はその上におられるゆえに恐るべき神なのです。4節「王は力をもってさばきを愛する。」この世では権力者が物事を正しく裁くとは限りません。しかし王なる神は全能の力をもっておられ、その力を正しい裁きにおいて行使されるのです。「公正を堅く立て、さばきと正義を〜行われた。」物事の途上では、悪が裁かれない時を私たちは経験します。裁判とは時間のかかるものです。正しい裁定こそ慎重に行われなければならないのです。そして聖書の民は歴史を学んでいました。悪が裁かれなかったことがあるだろうか。実に、罪深い神の民こそ捕囚の憂き目に遭い、神に背くことがいかに罪深いことであるかを証明したのです。
しかし神は悪を裁きつつ、民に赦しと愛を顕す神でもありました。6節からモーセ、アロン、サムエルら偉人の名が連なりますが、彼らは祭司の中にいた、御名を呼ぶ者の中にいた、特別な人物ではなく、主を愛し、主に頼る信仰者の仲間として登場します。私たちは彼らの偉大な業績ではなく、主を呼び求める信仰にならうべきです。7節、彼らは「主のさとしとおきて」を守りました。みことばを語ってくださる主との交わりの中を生きたということです。8節に主の御性質が言い表されます。『赦しの神』『悪しきわざには報復される方』。愛と義、容易には両立しない神のご性質が、旧約聖書の時代からはっきりと認識されていました。神は罪深い神の民に対して憐れみ深くあられたからです。そして新約以降の私たちは、まさにイエス・キリストによって『赦しの神』と『報復の神が』一つとなったことを知ったのです。神の報復は、御子イエス・キリストがご自分のいのちを犠牲として受けてくださいました。なんという救いでしょうか。私たちには、この犠牲による赦しを信じる信仰だけが求められているのです。神は尊い御子のいのちという犠牲を払って私たちを愛し、私たちを赦してくださったのです。神はまことに「我らの神、聖なる方」(9節)なのです。