2025.3.9みことばの光


 詩篇105篇を学んだ時に、野田師は「ヴァイツゼッカーの『荒れ野の40年』を一読していただきたい」と結んでいましたので早速取り寄せました。新版もありますが、旧版が背景の説明もあり大変学びになりました。有名な言葉「過去に目を閉ざす者は〜現在にも盲目となります」。しかしそれに続く言葉も重要です。「非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」なぜ過去に目を閉ざしてはいけないのか。残虐な行為を繰り返さないため。ところが私たちの時代は残虐行為を繰り返しているのです。過去に十分に学んでいない、そう言い切れます。かつてヒトラーのユダヤ人に対する敵意は、忌まわしい大虐殺に至りましたが、21世紀の私たちの世界も、非人道の怖るべき罪、差別を、根絶できずにいるのです。なぜ人は共に生きる道を探るよりも、他者を排除する道を選ぶのでしょう。

 「ヴァイツゼッカー演説のいくつかの背景」として神学者、村上伸氏の論説が掲載されていました。「キリスト教信仰と罪責告白」の箇所が重要と思われました。  「キリスト教信仰の一つの特長は、率直に自らの罪を認め、大胆に告白して神の赦しを求めるところにある。旧新約聖書を通じて目につくのが、代表的人物は完璧ではなかったこと。モーセは殺人の現場を見られ荒野に逃避。罪の自覚と挫折を通して彼は使命に目覚め、エジプトに戻った。最大の名君ダビデは、部下の妻バテシェバに横恋慕し、夫ウリヤを殺害。罪を預言者に指摘された時、詩篇51篇の懺悔が生まれた(バチカンの秘曲ミゼレレで有名)。イエスの弟子ペテロは三度「その人を知らず」と否認し、パウロに至っては初期キリスト者の仮借なき迫害者であり、後に自分のことを「罪人のかしら」と述べている。聖書は彼らを美化しない。彼らの罪責をあからさまに描き、隠さない。それは罪人を赦したもう神を信じるからだ。」

 人の罪を赦す神は、罰を御子に背負わせ、私たちを赦してくださいました。だから私たちは自分の過ちに向き合うことができるのです。自分の罪の深さが分かる時、イエス様の担われた十字架の苦しみの重さが分かり、神の赦しの愛の大きさが分かるからです。悔い改めの季節を自分の霊にとって、意義深いものといたしましょう。