2024.12.1 みことばの光

 詩篇97篇1節「主は王である」この言葉は96篇、99篇にもあります。王である神について歌った詩篇が続いています。これは「神が王である」というご性質について述べているのではなく「主が王となられる」神の王としての顕現、宣言、告知的な言葉です。誰が王なのか、わからなくなった世界、後継者争いが続いた戦乱の世で、王になるべき真の指導者が王座に着き、平和の時代の訪れが期待できそうな、そのような気配を漂わせる宣言なのです。

 「地は小躍りせよ。〜島々は喜べ。」地面は私たちの足の下に揺るがずに存在するもの、そんな常識を、神の支配はくつがえします。真の神が王として治めてくださるなら、それは自然界にとっても喜びなのです。現代の世界が人間の欲望によって痛めつけられ、汚染されている

事実を考えるなら「被造物は呻いている」(ローマ8:19)という聖書の言葉は、現実を鋭く言い得ているとしか言いようがありません。

 「雲と暗黒が主を囲み、義とさばきが御座の基である。」神は人の見ることのできないまばゆい光の中に住んでおられるので、逆に雲と暗黒に隠される必要があります。そして、神の義とさばきも、普段は明らかにされていません。審判の時に明らかにされるまでは隠されているのです。暗闇の中に隠されていて、現われの時を待っているのです。真の神のご性質の一つは「隠れたる神」です。しかしそれは神が「現れる神」でもあることを示しているのです。「ご自分を現わす神」と言っても良いでしょう。

 「火は〜焼き尽くす、稲妻は照らし〜世界はおののく。」木曜日に車を運転していたら、突如、かなり強い閃光が走った後に、車の真後ろに「バキンッ」と激しく重いものが落ちたような音がして思わず身を竦めました。光ったらもう落ちているいので、雷を怖がる必要はないのですが、実際に落雷したら、やはり大変なことになります。それは主の来臨の前触れを表しているのです。真の義とさばきを現される神は「主を愛する者、敬虔な者たち」(10節)には、待ち望むべきお方ですが、備えなければなりません。「正しい者たち。主にあって喜べ。」(12節)