2024.8.25みことばの光


 詩篇89篇は”国破れて祈りあり”です。長い詩篇は三つの部分から成っており、祈りがささげ
られた時の状況は第三部分38節以降に記されています。神が、油注がれた者、すなわちイスラエル、ユダの王に向かって憤っておられ、王を捨てられたのです。
 第二列王24章にはユダの最後の王エホヤキンの即位が記されています。彼は18歳で王となり3ヶ月間ユダを治めましたが、その時バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、彼は捕虜として連れ去られました。彼のおじゼデキヤが傀儡政権として立ちますが、バビロンに反逆したため捕えられて目の前で息子たちを惨殺された後、目をつぶされてバビロン捕囚となります。このおじに比べるならエホヤキンの後生はいくらか幸いです。牢獄から呼び出され、バビロンの王に優しい言葉をかけられ、囚人服を脱がされました。しかし詩篇89篇45節は「あなたは彼の若い日を短くし、恥でおおわれました。」と評価します。敗戦国の王として、恥、屈辱は、変わらない事実でした。
 神の国の王がこれほどの屈辱を味わっているということこそ、神に祈るべき理由があるとして詩人は祈りを紡いでいるのです。南ユダ王国は由緒あるダビデ王家の血筋であり、神がダビデと交わした契約が存在したからです。聖書の神は契約の神。契約のことばに、約束が記されているので、これを土台に、神に訴えることができるのです。
 89篇の第一部分は1から18節。「私は主の恵みをとこしえに歌います。」という言葉で始まり、契約相手である主が恵み深い方であることを永遠に讃美するのが私の務め、と喜ばしく語ります。詩人は神に激しい要求を持っていますが、まずは神をふさわしくほめたたえることが、人間の分というものです。そして神は恵みと真実を持っておられるので、契約に基づく要求を神に訴えることのできる理由があるのです。
 第二部分は19節から始まります。第二サムエル7章に記されたダビデ契約こそ、ダビデ王家が投げ捨てられたように見える時に、祈りの拠り所となりました。詩篇は契約がどうであったのかと反芻し、思い巡らします。29節、主はダビデの子孫に永遠の王座を約束しました。だからこそ国破れてもその後の回復を期待できるのです。51節、主が油注いだダビデの子孫が、そしられたままで終わることはありません。この期待が、数百年後に、キリストによる救い、神との和解において報いられることとなったのです。