2023.12.31みことばの光


「あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」マラキ書3章18節
 先週の木曜日は恵みの分かち合い。一年の歩みを振り返って、恵みを分かち合いましたが、当日の聖書日課から教えられたことを分かち合われた方もいらっしゃいました。
 マラキ書の著者名は、1:1の「マラキ」を固有名詞と理解するか一般名詞と理解するかによって議論が分かれます。七十人訳聖書は、マラキをその意味のままに「彼(主)の使者」と訳します。またマラキという名の預言者は他に聖書に登場しないのです。しかしすべての預言書は冒頭に預言書名を記しているので、マラキを一般名詞と理解することは、唯一の例外となっていまいます。それよりは、マラキも固有名詞と理解し、マラキという名の預言者がこの預言を神から与えられたと理解することが自然な理解なのです。
 時代背景については1:8の「総督」という言葉の使用により、捕囚期後と考えられ、内容は、神殿再建についての言及が無く、神殿礼拝が習慣的なものに堕落してしまっているので、神殿再建後かなりの時間が経過していると考えられます。社会的状況は、貧者、弱者への抑圧、異邦人との結婚、祭司の腐敗、ささげ物の軽視、などがあり、エズラ、ネヘミヤ時代に共通しています。紀元前516年、帰還民は総督ゼルバベルのもと神殿再建を完了、458年にはエズラたちが帰還、445年にはネヘミヤが帰還し城壁再建を始めます。彼は433年にいったんペルシャに帰還しますが、その後再びエルサレムに戻ります。ネヘミヤ不在の10年ほどの間、ユダヤ人は献金や安息日の軽視、雑婚、祭司の腐敗の罪に陥り、マラキの指導を必要としたと思われます。
 3章14節には、信仰を弱らせてしまった民の声が響いています。「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と」ユダヤ人がいつも信仰の民ではありませんでした。彼らも現代人同様、信仰なんて何の役にも立たないと考える危険性は常にあったのです。冒頭に紹介した聖句のように、神の前での「正しい人と悪しき者」の区別がつかない時代でした。しかし神は17節、あわれみを示すことを約束し、民を信仰の道に招きます。信仰が虚しく感じられる時はあります。しかし、神様が全てを見放し、見捨てたまま放っておかれることはないのです。