2023.10.1みことばの光


 詩篇58篇は権力者が悪を行っている時の祈りです。ここで聖書は、政治行動について教えていませんが、祈りを教えています。私たちは社会で行われていることに無関心、不勉強であってはいけません。また楽観や悲観のどちらか一方に傾き過ぎることも正しくありません。神の御心に照らして正しいことが行われているのか、悪が行われているのか、しっかりと学び、祈る義務があるのです。ダビデは長期政権を全うした王でした。彼の実際の行動がどれだけ多くの祈り支えられていたかを、私たちは想像すべきです。
 1節、詩人は、権力者に「本当に義を語り?公正にさばくことができるのか。」と問いかけています。権力者は確かに権力を帯びており、その決定は、社会に影響を及ぼす実力があります。しかし、人間の権力は必ず腐敗するので、三権分立などの民主的制度があるのですが、これらの制度も、完全に人間の腐敗を防止できるわけではありません。日本国憲法は第12条で、以下のように語っています。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」よりよい社会は「国民の不断の努力」、つまり絶え間ない努力が必要だということです。絶え間ない努力を裏で支えるものを、信仰者は持っているのです。それは、祈りを聞いてくださる神様を信じて、祈り続けることです。
 1、2節では権力者に対する呼びかけの言葉があります。悪政を呟くのではなく、行政の首長らに直接、手紙を書いている人たちがいます。意見することは国民の権利であり、また行うべき努力とも言えます。意見せずに呟くだけなら不誠実でしょう。しかし、続いて3?5節の考察の中に「耳の聞こえないコブラのように、耳を閉ざし」という言葉があります。蛇使いに操られるコブラは、笛の音を聞いて踊るように見えますが、彼らに耳はありません。実際は地面から伝わる振動などに反応しているそうです。悪徳政治家が民の声を聞く振りをして実は聞いていない、いつの時代にも繰り返される悪を、聖書は見事に言い当てています。彼らは民の声だけでなく、当然と思われるような理性の声、また神の声にも耳を傾けないのです。それで失望してはなりません。6節以降、激し過ぎるような言葉もありますが、それらは実際に行われた悪政が、如何に弱者を虐げたか、推測させる言葉です。私たちは正しい神が正しい裁きをやがて実行されることを忘れてはなりません。そのことを忘れないためにも、私たちは神を信じて祈り続ける務めを帯びているものなのです。