2023.7.23みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇51篇を学びました。七つの悔い改めの詩篇の第四番目、もっとも深い罪認識、そこからの回復の道程が示された偉大な詩篇として読まれてきました。バチカンの秘曲アレグリの『ミゼレーレ』はこの詩篇を歌詞としています。14歳のモーツァルトが聞いた記憶を頼りに採譜したことで、門外に出ることとなり、禁令は撤廃されるに至ります。
 表題より、背景はサムエル記第二の11章12章であることがわかりますが、11章の、罪を犯し隠蔽するダビデと、この詩篇における真心からの悔い改めを祈るダビデには、天と地ほどの隔たりがあります。その間に介在するのは預言者ナタンの王を恐れぬ非難の声。預言者を通して語られた神のことばが、ダビデの心に変化を起こし、彼を真心からの悔い改めに導いたのでした。そしてイスラエルの民は、この王の祈りを、悔い改めの模範としたのです。
 私達は罪を犯して失敗をした時、どのように祈れば良いのでしょう。1節は、罪人の矛盾した状況をそのままに表しています。「あわれんでください」とは、要求する資格のない者の願いです。他方「あなたの恵みにしたがって」という言葉は神との関係の中で求める祈りです。ルカの福音書に記された放蕩息子の言葉が同じ矛盾を抱えていました。ルカ15章21節「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」彼は息子と呼ばれる資格を失った自分の罪を心から認めています。しかし、帰るべきは父の家でした。私達の罪には様々な側面があります。自分に対する罪、隣人に対する罪。しかし、罪はおよそすべて、神に対するあざけり、あなどりが存在しているのです。他人に対する責任が無くなるという意味ではありません。全ての罪において、神に対する罪があることに気づくとき、私達は本当に謝らなければならない相手、創造主なる神様のことがわかるのです。神は、わたしたち誰もが幸いな人生を歩むようにいのちを与えてくださいました。隣人に対しても人として「神のかたち」を与え、尊厳ある存在としておられます。自分のことを低く見ることも、他人のことを軽んずることも、そして、世の秩序を乱す行為も、いずれも、私たちの存在そのものをお造りになられた神に対する罪なのです。
 この罪を解決することができるお方は神お一人なので、ダビデは祈ります。「私を洗ってください。そうすれば、私は雪より白くなります。」神様は、どんな罪からも私たちを、すっかり洗って、雪より白くしてくださる「赦しの力」を持っておられるのです。