2023.8.6みことばの光


 7月22日(土)の早朝、中林照子姉は天に召されました。24日の前夜式、25日の告別式で何を語ろうかと祈っていましたが、ペテロへの手紙第一の1章7節が示され、その日の朝に『マナ』を開いたら同じ箇所。照子姉の信仰の証しは、この御言葉の通りであったと、主が教えてくださっているように感じられました。
 「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金より高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」
 照子姉の終わりの近い時に、牧師は三度病床を訪問することができました。それまでにも済生会病院ですれ違い、立ち話、座り話をしたことがありましたが、久しぶりの訪問の時には、「待ってたのよ」と率直な言葉。いつもは明るく、冗談も交えて話してくれる照子さんでしたが、その時はゆとりのなさ、追い詰められて一時一時を必死に過ごしておられることが伝わってきました。そして二つの打ち明け話。主人が信仰を持つことを願っていた自分の気持ちが、主人にとってどれほどつらいことであったか。今でも、そんなこと、照子さんに何の責任もない、と第三者として思いますが、病床の苦しみの中で、照子さんは主から問われたのだと思います。夫の救いを求める心の中に自己中心はないのか。そして、自分の思いではなく、すべてを主の導きに委ねる決心を明らかにしたのだと思います。
 もう一つは抗がん剤治療のこと。主に頼らずに、薬に頼ろうとしていた自分がいたのだ。けれど、もう、わたしはすべてを主に委ねます、と言われました。これまでだって、祈りつつ決断してきたのだから、治療法の選択を誰が責めるだろうか。しかし照子さんは、火で精錬されるような試練の中で、自分の心のうちの、主に信頼し切っていないと思われる金カスを取り除いたのだと思います。
 「精錬された信仰は、朽ちていく金より高価である。」立ち向かう現実の厳しさの中で、持っていた信仰の中にわずかに残っていた不純物が取り除かれ、ただただ主に喜ばれる信仰へと精錬されていく、その実際は、主のみがご存知の領域と言わざるを得ません。照子姉は主に喜ばれる信仰を望み、それを握りしめて天に召されました。私たちもこの信仰の後に続く者とならせていただきましょう。