2023.3.19みことばの光
詩篇38篇は「記念のための」という表題があります。深い苦しみの叫びは、何の記念なのか疑問が湧きますが、記念し、覚える「主語は誰か」が重要です。この記念は主に覚えていただくために詩人が窮状を訴える祈りなのです。苦しみの時に、自分の状況をしっかりと主に知っていただくことは、思い出してくださる主に覚えていただくためであり、この祈りを、自分自身、必要としているのです。病には、罪ゆえの病と原因不明の病があることを覚えておきましょう。すべての病の背後に罪があるわけではありませんが、病の背後に罪は無いと言い切ることも間違いです。このケースは罪ゆえの病でした。他の場合は、主の栄光が現されるための病があります。
詩人は心身弱り果てています。主の激しい怒り、大いなる憤りの減免を願っています。罪の自覚があるので、主の怒りや憤りを全て否定することはできません。しかし、激しすぎます、大きすぎますと、弱り果てて、憐れみを求めているのです。ダビデはバテシェバ事件の時に、即時、率直に悔い改めて、赦しを得ました。罪を言い表し悔い改めるなら、どんな罪も主は赦してくださる。これは聖書の教える最も重要な真理です。しかしダビデの人生の後半には、この罪ゆえの家庭問題、行政の混乱がありました。赦されている、しかし人生の現実には罪の苦い実りや刈り取りが残る場合があります。歳と共に弱る肉体を病が襲いかかることもあります。若い頃の小さな罪が、老齢になって重くのしかかることもあります。また、この病は家族、知人、友人たちを、遠ざける苦しみとなりました。(11節)伝染性の病が考えられます。私たちはコロナ禍を経験しました。感染すると家族であっても見舞うことが制限され、感染していなくとも、病院、施設の訪問が制限されました。慰めや励ましが必要な時に、人の助けが得られず、孤独の中で試練と向き合う、こんな苦しみが、人生の中にあり得るのです。今も昔も変わらない現実です。王であるダビデには政敵も常に存在していました。
そんな時、彼は、耳を閉じ、口を閉じ、主を待ち望みます。(13~15節)罪ゆえの主の責めを覚えていても、憐れんでくださるのも主なのです。詩人は、21節「ヤハウェよ」と主の名を呼び、「わが神よ」と契約に立って救いを求めています。私はこの方を私の神とした、その契約のゆえに、私たちは罪の苦しみの中でも、憐れみを信じて祈ることができるのです。またこの詩篇の苦しみは、すべての人の救い主が十字架の上で罪人となられて背負われた苦しみでもありました。私たちはイエス様の犠牲のゆえに、背負うべき罪を取り除いていただいた者なのです。