2023.9.17みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇57篇を学びました。背景はサムエル記第一24章、ダビデがサウル王に追われて逃亡生活中、エエリムの岩の東の洞穴の奥に隠れた時のことです。同じ洞穴にサウルが用を足すために入りましたが、ダビデに気づかず、ダビデはサウルの上着の裾をこっそり切り取り、難を逃れます。
 表題のミクタムは、57篇の前後に幾つか見られます。共通する状況は、賛美の歌を歌ったり、声を上げて祈ることのできない逃亡生活、危機的状況があったことから、ミクタムは声を上げることのできない「無言の祈り」ではないかと言われています。詩篇は祈祷集、讃美歌集ですが、平和な時の礼拝の歌ばかりでないことを改めて教えられます。私たちはコロナ禍で礼拝、賛美の不自由さを経験していますが、そのような時でも、心の中での真心からの叫びの祈りを、祈り続けなくてはなりません。
 1節「あわれんでください」という言葉は、56篇の1節にもありました。似たような試練が断続的に続いたので、昨日もこのように祈って助けられた、しかしまた似たような試練が近づいて来た、昨日のように今日も祈ろう、そういうことがあるのです。しかし57篇では「あわれんでください」という言葉が繰り返されています。昨日よりも危険がいっそう近くに迫り、同じ言葉を繰り返さざるを得ない、逼迫した状況でした。
 ダビデは洞窟に隠れながら「御翼の陰に身を避けます」と祈ります。洞窟に隠れて、「これで大丈夫」とあたりを見回すだけでは足りませんでした。危険から逃れるためには祈を忘れてはならない。「神様、あなたの目に見えない御翼こそ、私の隠れ場。助けてください」と信仰を働かせることを忘れないダビデでした。
 2節「いと高き方」は3節「天から助けを送って」くださる父です。私がどこにいても、どんな状況でも、天は私の頭上にあるので、天からの助けは、祈祷者に届くのです。私たちが「空の下」に生きる人間である限り「天の父なる神様」への祈りは、必ず聞かれ、答えられ、神の「恵みとまこと」が送られて来るのです。それが神の天におられる意味です。
 4節、祈り疲れ、うとうととしたダビデの横を、サウルの家来が気づかずに通り過ぎたのかもしれません。「ダビデは愚かだ、王に敵対するなんて。」とダビデを蔑む言葉、彼らの身につける剣や槍のカチャカチャと鳴らす音が聞こえたのかもしれません。気づかれたら万事休す。映画なら"オーマイゴッド"。しかしダビデは祈りました。「神よ、あなたの栄光が、天でも地でも崇められますように。」この祈りが、ダビデを信仰の勝利に導きます。