2023.10.15みことばの光
詩篇60篇は表題よりサムエル記第二の8章の記事が背景となっていることがわかります。その記事はダビデが王となり隣国を平定したことを告げていますが、詩篇を通しては、何の困難もなく勝利のみがあったのではないこと、主に拒まれていると思われるような敗北もあったことがわかります。その逆境において、ダビデは問題の所在を霊的に捉えました。私たちが神の御心を損なって主に拒まれているという罪の問題を鋭く自覚しました。敵がどうこうでない、私たちの軍備がどうこうでない、神の前での霊的な反省、罪の自覚があったということは重要です。すぐる週はイスラエル・パレスチナ間で再び戦争状態が激化しましたが、問題をわたしの罪の問題と捉える政治家はいるのでしょうか。一方的な軍事行動、無防備の市民を圧迫し、殺害する行動は、決して許されないし、真の平和に至る道ではないのです。
4節の「旗」とは敗北した者が体勢を立て直すために退却すべき場所を指し示す旗です。神の元に立ち返り、どこに間違いがあったのかを省みる、そして、主の御心を確かめて再び正しい目的のために立ち上がる、そのことが必要でした。5節「あなたの愛する者たちが助け出されるよう?答えてください。」との祈りは、神の愛を受けるにふさわしい者だけが答えをいただける祈りです。神を愛し、正義を行って神に愛されることがなければ、神の答えは与えられないのです。
6節、答えは聖所から告げられます。イスラエルの祭り、礼拝の中で、神の約束の言葉が確認されました。特徴は、すべてが「わたしのもの」と言われていることです。すべては神のものであって、人のものではありません。約束の地であろうと、それは神のものであって、神の許しなしに自由にできるものではないのです。
10節は謙遜なダビデの告白です。主が共におられないなら、勝つことはできない。そのへりくだりが11節、12節の言葉に続きます。「人による救いはむなしい」「神にあって、私たちは力ある働きをします。」詩篇の詩人は軍事力による勝利のむなしさをはっきりと自覚し告白する信仰者でした。神と共に正しい歩みをする者が、真に有益な、歴史の評価に耐える営みを地上に残すことができるのです。人の力、人の考えによる働きのむなしさに人々が気づき、神の審判に耐えうる正しい歩みに導かれるよう、忍耐強く、希望をもって祈りましょう。