2023.11.19みことばの光
詩篇63篇は表題に「ダビデがユダの荒野にいたときに」とあるように、ダビデ王、都落ち事件が背景となっています。姦淫の罪を犯したダビデ(IIサム11章)は、即座に悔い改め、神の御前に罪の赦しを受けます(同12章)が、彼の家族には、現実、悪影響を与えることになりました。息子アブサロムは戦車と近衛兵を手に入れ、民の声に耳を傾けることで民衆の支持を得ます(同15章)。息子がヘブロンで旗揚げすると、ダビデはエルサレムを明け渡すことにしたのでした。彼は荒野へ向かう前に、契約の箱を都に戻します(15:25)。主の恵みをいただくことができれば、主は自分を都に連れ戻してくれるだろう、契約の箱と住まいをもう一度見ることは可能であろうと、未来を主の御心に委ねたのでした。また荒野の草原でその時を「ゆっくり待とう」(15:28)、との言葉もあります。そして荒野に着いてから幾晩か過ごし、63篇の祈りをささげることになったのでしょう。
彼は自ら荒野へ行くことを選びました。神に赦された、とはいえ、王子たちの争いを鎮めることができず、ついにアブサロムは敵意をあらわに王として旗揚げした。自分の過ちを責める思いもあったでしょう。そして水の無い砂漠で、実際に彼は照りつける日差しによって喉の渇きを覚え、眠れぬ夜を過ごした明け方、たましいの満たしを神に求めたのでした。2節の「仰ぎ見る」という言葉は、1節の「求めます」という言葉に、神に対する敬いを加えます。「求める」者は、単に自分が満たされることだけ求める自己中心に終わる危険性がありますが、「仰ぎ見る」者は、神御自身がくださる答えを待ち望む姿勢を持ちます。礼拝として「よりふさわしい姿勢」と言えるでしょう。そして彼が、神の「力と栄光を見るために」神を仰ぎ見て待ち望んだ時、荒野は聖所に変わりました。神殿が聖所でないのです。契約の箱が近くになければ神の臨在がなく、礼拝できない、ということはないのです。ダビデは自分の信仰によって神の遍在(どこにでもおられること)を経験したのでした。
神を仰ぎ見た時に、彼は神の「恵み」に気づきます。原語では"ヘセド"。「愛」とも訳せますが「契約に基づく愛」なので、約束された愛です。神の約束された愛ですから、人の不信実によって無に帰することはありません。それは「いのちにもまさる」。この世のいのちが尽きたとしても、神の愛と恵みは永遠に私を祝福するから、実際、地上の命にまさるすばらしい価値あるものなのです。そのことを賛美すると、ダビデの心は渇きから礼拝の喜びへ、急速に舵を切ったのです。4節「両手を上げて」祈る、動作もダビデの賛美を力付けています。