2023.10.29みことばの光


 詩篇61篇の背景は不明確ですが、「地の果て」という言葉から、ダビデ遠征時、あるいはアブサロムの乱、サウルに追われていた時などが考えられます。「心が衰え果てるとき」とあるように、彼は問題に直面し、疲労困憊し、立ち上がる力が残されていないように感じていました。しかしそんな時こそ信仰を働かせるのです。その願いは「どうか 及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください。」との願いでした。疲れて何もできない。どうしたら新しい力が与えられるか。安全な休みの場所を求めなくてはなりません。「岩の上」は確固とした土台があり、人はその上にしっかりと立つことができます。「及びがたいほど」ですから、私をわずらわせる目前の問題、目前の敵が消えて、見晴らしの良い展望台のような場所です。祈りの聴き手は、万物の創造主、全能の神、なので、私たちこそ、想像力を逞しくし、現状にふさわしい助けを祈り求めるべきです。このような祈りの聴き手がおられると信じることができるので、私たちは祈りの中で心の疲労を癒すことができるのです。
 「神との祈りの交わり」こそが「高い岩の上」であり、そこはまた「避け所、やぐら」となります。「高い岩」は天然の場ですが「避け所、やぐら」は人が目的をもって備えた場所です。守りを固め、体制を立て直し、攻勢に出るための良い出発点となります。私たちは祈りによって、安全に守られ、力を回復し、次の行動への最善の策を与えられるのです。
 さらに詩人は「幕屋」に住み、「御翼の陰」に身を避けるイメージを描きます。「幕屋」は旅人や友を歓迎し、もてなす場でした。神はまさに祈りにおいて、私たちを親しい友のように招いて、もてなし、交わりを持ってくださるのです。「御翼の陰」は親のような愛で弱い者を守ることです。ルツ記2章12節でボアズは、ルツがベツレヘムにやって来たことについて、「あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主」という言葉をかけています。まことの神は、ルツのような異邦人であっても、貧しいやもめであっても、助けを求める弱い者を、肉親のような愛をもって守ってくださるということです。
 この詩篇では、詩人がこれらの言葉を費やして祈ると、セラを境に、その口調は神の答えの確信に変わります。その中で6,7節、彼は王の祝福を祈り求めます。私たちは自分のために、また誰かのために、この祈りを用いることができます。そして、神を信じて祈る者は、永遠の賛美と神に応答して生きる生活へ導かれるのです。