2023.6.25みことばの光


 先週の祈祷会は野田秀先生の著書に沿って「コラ人たちの感謝」と詩篇「48篇」を学びました。(コラ人とは詩篇の表題にたびたび登場するイスラエルの聖職者の部族レビ人の一氏族です。)
 詩篇第二巻の数篇には「コラ人による」歌という紹介がついている。(この日学んだ48篇が「コラ人の賛歌」でした。)彼らは主の宮(エルサレム神殿)で賛美する、言わば聖歌隊の役割を担っていたことはすでに述べた。多くの民の前で、人々を代表して賛美をささげるわけであるから、彼らは大変名誉な立場に置かれていたことになる。しかし、コラ族には忌まわしい過去の傷があった。それは、イスラエルがモーセに導かれて荒野を旅していた時のことである。民数記十六章を参照していただきたい。
 レビ人のコラは、ある人たちと共謀し、250人でモーセとアロンに反逆した。それは、神に逆らったのと同じことであった。この時モーセは、コラを戒めて、彼らの一族が「主の幕屋の奉仕」のために特に選ばれた人たちであることを確認させている(民数記16:9)。しかしコラは、むしろその立場のゆえに、かえって高慢になってしまった。彼の罪が厳しい結果を生み、コラの一族は滅ぼされてしまう。「ただし、コラの子たちは死ななかった。」(民数記26:11)そして三百年後、その一族はあらためて主の宮で仕えることが許されている。
 コラの子たちにとって、先祖の罪は忘れられない不名誉であった。それだけに、自分たちが置かれた晴れがましい立場は、神のあわれみによるものであるとしか言えなかったはずである。
 主を賛美するクリスチャンも、コラの子であると言える。私たちは神に背き、自己中心的な生き方をしていた。にもかかわらず、私たちは赦され、神の子、神の民とされたからである。クリスチャンが神を賛美する理由はそこにある。
 あらためて「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」(第一コリント15:10)という告白は、この私のものでもあることを感謝しよう。
 続く48篇では、教会という宮について思い巡らし、教会の与えられていることに感謝しよう、との勧めがなされていました。