2023.1.1みことばの光
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネの福音書 第1章1節
このような書き出しで始まるヨハネの福音書は、ほかの三福音書と比べると、多くの点で非常に異なっている。この福音書は、ほかの福音書が省いているものを、多く含んでいる。また、反対に他の三福音書が記録しているものを、多く省いている。このような相違の理由については、いくつかの説明の可能性があるであろう。しかし、最も重要なことは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人の記者は、神の直接の霊感によってそれぞれの福音書を書いた、ということである。四福音書それぞれの全般的構成、特殊性、記録されている内容、また省略されている事柄などについて、四人の記者は、みな等しく聖霊の完全な導きを受けたのである。
ヨハネが福音書を書くに当たって受けた、特別の霊感については、十分に注目しなければならない。この福音書に特徴的なことはすべて、キリストの教会が所有する最も貴重なものである。キリストの神性、信仰義認、キリストの職務、聖霊の働き、信者の特権などについて、ヨハネほど完全な説明をしているものはない。もちろん、マタイ、マルコ、ルカが、これらの偉大な主題について全く沈黙しているというのではない。しかし、ヨハネの福音書では、これらの主題が、きわだっており、これを読む者は決して見落とすことはないであろう。
冒頭の五つの節は、私たちの主イエス・キリストの神性についての、比類ない荘厳な論述である。記者ヨハネが「ことば」について語る時、それは疑いもなくイエス・キリストを指している。この論述には、人間の持つ理解力をはるかに越える高さ、深さがある。同時にこれには、すべてのキリスト者が心に蓄えておくべき明快な教えが含まれている。
最初に学ぶことは、主イエス・キリストは「永遠」である、ということである。ヨハネは、「初めにことばがあった」と言っている。主イエスは、天と地が創造された時にその存在が始まったのではない。もちろん、福音が世界に示された時になって、その存在が始まったのでもない。彼は、「世界が始まる前に」(ヨハネ17:5)御父とともに栄光を持っておられた。彼は、あらゆる物質の創造の前に、また、時が始まる前に存在しておられた。彼は、「万物に先立って」(コロサイ1:17)存在しておられた。彼は限りない永遠から存在しておられた。
第二に学ぶことは、主イエス・キリストは「御父とは区別されるが、御父とともにあって一つなるお方、人格」である、ということである。ヨハネは、「ことばは神とともにあった」と言っている。御父と「ことば」とは、二つの人格であるが、人間の理解を越えて一体性のうちに結びついている。父なる神が永遠から存在しておられたように、「ことば」すなわち子なる神も同様におられた。共に等しい栄光を持ち、共に等しく永遠の御稜威(みいつ)を持ち、しかも、その神性は一つである。これは偉大な神秘である。これを、あえて説明しようと試みることなく、幼児のように受け入れることのできる者は幸福である。
第三に学ぶことは、主イエス・キリストは「実に神ご自身」である、ということである。ヨハネは、「ことばは神であった」と言っている。彼は、単なる創造された天使とか、父なる神より劣る存在であったが罪人を贖うために、父なる神から権能を授けられただけのもの、というのでもない。主イエスは、全き神ご自身なのである。彼の神性に関しては、御父と等しく、御父と同質の神であり、世界の存在以前に生まれたお方である。
(ジョン・C・ライル福音書講解ヨハネ、釈義ノートより)