2023.8.13みことばの光


 先週の祈祷会では詩篇53篇を学びました。野田秀先生は最後、右記のようにまとめています。「歴史上、この世界に戦争がなかった日はほとんどないと言われる。しかも今は、ボタン一つで顔も見えない人々を大量に殺すことができる時代である。そして、人々はそういう戦争が、神に対して陣を張ることなのだということに気がついていない。私たちは祈らねばならない。」折しも8月6日は広島平和記念日、9日はながさき平和の日、「ボタン一つで顔も見えない人々を大量に殺すことができる」兵器が戦争で用いられた歴史を覚える日でありました。過去を振り返る報道の中で、まさに爆弾投下を担当した当事者が、任務を終えて日常生活に帰ることしか考えていなかった、自分の任務が、どのような結果をもたらすかということについては、ほとんど詳細に想像することはなかったことが伝えられていました。
 詩篇53篇はほとんど同じ内容を持つ14篇と共に、無神論者の愚かさを告発しています。1節「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。」すべて神に造られた人間の心の中には「宗教の種」が植っていて、神を求める心が存在しています。それで人は故意に悪を行う時には「神はいない」と裁き主を否定しなければ悪行に手を染めることができないのです。しかし一旦その立場を決めると、悪の道をひた走ることになります。神を否定する人の悪行の一つは、神に与えられた人間の尊厳を否定することです。4節「わたしの民を食らいながらパンを食べ」と、弱い者を食い物にし、虐げても平気、ただ自分の生活のことだけを考えているのです。神御自身を否定することが、すべての人の与えられている尊厳を認めない態度につながることを教えられます。不平等な格差社会が出現しても自己責任という言葉で弱者を救済する責任を背負おうとしないのです。
 しかし神を否定したまま、本当に平安な生涯を終えることができるのか。そうではないと詩篇は語ります。14篇においては信仰であった信念が、53篇では現実になっています。5節「見よ、彼らは恐れのないところで、大いに恐れた。神が、あなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ。」聖書の歴史の中には、驕り高ぶった神の敵、神の民の敵が、驚くべき方法で敗北、退却させられた幾つかの例が記されています。神がさばきを控えておられる間は「神はいない」という言葉が真理のように響くかもしれませんが、より大きな流れで物事を観察した時に、それは愚か者の考えに過ぎないのです。私たちは歴史から学ばなくてはなりません。